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劇団21世紀FOX第55回公演 「紫煙倶楽部の完全犯罪(シエンクラブノハンザイ)」に出演決定!! 2004年11月2日(火)〜7日(日)シアターサンモール 詳細はこちら
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インターネットラジオ「がんばれ!山口少年探偵団」 山口勝平氏とライターの大沼弘幸先生によるオモシロトーク番組。探偵の大沼先生と助手の山口少年という設定でトークを繰り広げる。ストリーミングWebラジオ番組『ハラショー』 にてON AIR中!
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「さんにんのかい」公演ビデオ・DVD好評発売中 「新選組‐名もなき男たちの挿話‐」 2002年2月22日〜24日、東中野・梅若能楽学院会館で行われた「さんにんのかい」第1回公演が映像化され収録 VAP/DVD・6‚090円・ビデオ・3‚990円(税込み)
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「異聞西遊記・孫悟空〜花果西遊妖仙奇譚」 2004年1月17日〜25日、新宿・紀伊国屋サザンシアターで行われた「さんにんのかい」第3回公演が映像化され収録 VAP/DVD・6‚090円(税込み)
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助監督、保父、船乗り、大工……なりたいものはいっぱいあった
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――― 小さい頃から役者になりたいと思っていたのですか?どんな子ども時代を過ごされてきたのか教えてください。
子供の頃なりたかったものはたくさんありました。当時一番なりたかったのは映画の助監督だったんです。テレビのフロアディレクターではなく、映画の助監督。“カチンコ”を打つのがいいなと思っていました。あとは保父さんとか、小学校の先生とか、船乗りにもなりたかったですね。「ガンバの大冒険」とか大好きでしたから。動物も好きで、そういった関係の仕事もいいなと思ったこともありました。父が大工でしたから、大工になろうと考えたこともありました。
そんな中で、端っこのほうにあったのが役者。どちらかというと、役者は末席でしたね。
―― 小さい頃なりたいものって、その時々で変わりますよね。“役者”っていう選択肢があったのには何かきっかけが?
幼稚園の時に学芸会で二幕ものの「桃太郎」をやって、桃太郎役だったのですが、一幕目の桃太郎だったので(鬼退治に出かけるまでの担当)全然おいしくないわけですよ。すくすく育つところだけで、衣装もオバQの絵のついた浴衣でしたし、カッコイイところがないんですね。ニ幕目になると友達が桃太郎役で、鉢がねとかして出てくるわけです。ちょっと子供心に悔しかったですね。小学校でも学芸会では芝居を選んでいましたから、好きだったのでしょうね。
ただ福岡でしたから、東京に比べると芝居の文化という点では、10年ぐらい遅れていたと思います。今でこそ結構行われているみたいですが、当時は盛んではなくて、シティ情報誌などを見ても、「黒テント」や「赤テント」くらいしか見かけませんでした。
ですから、芝居や舞台に接する機会がありませんので、役者に対する気持ちもそんなには育たなかったと思います。演劇部にも入っていませんでしたし。バンドをやっていて、サイドギターでボーカルを担当していました。でも、あくまでバンドは遊びでしたよ。コピーしかやっていませんでしたから。
――― ではいつ頃から役者を目指すようになったのですか?
高校の三者面談の時に、先生と母親に初めて「役者になりたい」と伝えたんです。突然思い立ったように、隅っこにあった“役者”という職業が一番先頭にきてしまったんです。
ですが、手段はまったくありませんでしたし、役者になりたいといったところで役者の何がやりたいのかという具体的なものもありませんでした。今考えてみると、理由をつけて東京に出てきたかっただけなのかもしれません。
ただ、故郷が嫌いだった訳ではないんです。福岡は、今も当時も大好きですから。東京に出てくるための手段として、単に役者を選んだ感じですね。
―― 突然「役者になりたい」といわれて、両親もさぞや驚かれたと思います。反対などはなかったのですか?
両親の反対はありませんでした。東京で、一人でがんばってみるのもいい勉強だから行ってきなさいといってくれました。でも、母は寂しかったと思いますけどね。どんなにTVで声を聞かせられるとしても、側にいてあげられないのはやはりひどいことなんだと思います。東京に出てきて役者になったことが、人生最大の親不孝だろうと思っています。その時の約束が、とりあえず5年やってみてダメだったら戻る、ということでした。 |
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小さい頃は末席だった役者を目指し東京へ
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―― 東京には特にアテもなかったようですが、まずは何をされたのですか?
高校にあった専門学校ガイドのようなものを見て進路を探しました。演劇関係では、「東京アナウンス学院」と「丹波道場」の2つしか載っていなかったんです。もしもきちんと演劇を目指しているのだったら、普通は丹波道場を選択するはずなんですが、丹波道場の練習風景の写真を見ると先生が竹刀を持っていて、「これは怖いなぁ」って。その時はまだ漠然と、“役者になろう”という程度の感覚しかなかったので、こんな怖いとこいけないって(笑)。
それと、福岡出身で訛りがあったので訛りを直さなきゃいけないと思い、それならアナウンスの学校かなぁと思いまして、「東京アナウンス学院」に入学しました。
入学してから学校に通うために奨学生として新聞配達をしていたのですが、その新聞広告に、とある声優の学校を見つけたんです。そこの先生が野沢雅子さんと、私の師匠である肝付兼太さんでした。声優という仕事があるのは知っていましたが、そんなに多くの声優さんを知っているわけではありません。でも、アニメに多く出演されていた野沢雅子さんは知っていて、野沢雅子さんが講師をする学校ならと、日曜日だけ東京アナウンス学院と並行して通いだしました。
肝付兼太さんの授業で舞台の話をたくさん聞いて舞台に興味を持ち、やってみたいと思うようになりました。ちょうどその頃、「21世紀FOX」も立ち上がったばかりで、僕は見てくれも小さいですし、肝付さんも期待はしていなかったようでしたから、最初はなんとかスタッフとしてもぐりこまねばという気持ちで入団しました。それが、19歳の時でした。 |
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