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私の異常な愛情 不肖・宮嶋流戦争映画の正しい観方 740円/光文社 知恵の森文庫/2008年6月
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不肖・宮嶋 戦場でメシ喰う! 2‚200円(税込)/ワールドフォトプレス/2008年5月
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不肖・宮嶋、再び。自衛隊レディース 2‚200円/イカロス出版/2008年1月
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不肖・宮嶋 メディアのウソ、教えたる! (14歳の世渡り術) 1‚260円(税込)/河出書房新社/2007年8月
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The『フライデー』
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大学4年生のとき、写真週刊誌『フライデー』の創刊準備号の発行にあたって、宮嶋さんはアルバイトとして仕事に参加する機会を得た。アルバイトとはいっても、実際には毎週1回現場へ行って撮影の練習をするといったもので、最初の試験期間のようなものだった。
「例えば、夜8時から朝の8時まで、新宿の歌舞伎町で撮影してこい!とだけ言い渡される。テーマは自分で見つけて撮るんです。当然、色んな交渉事もしなければいけない。歌舞伎町近辺でフラッシュをバシバシたいていたら、こっちからトラブルを招いているようなものですよ。そのトラブルの対処法なんかも練習してこいと」
「張り込みの仕方も、見よう見真似で覚えていくんです。立ちんぼから、車の乗りこみ、張り込み用の専用車を作る…等々。先輩から教えてもらえるわけでもなく、全部自分たちで考えてやれと。でも、そういうことを考えるのも楽しかったですよ」
「試用期間中の写真なんて、実際に使ってもらえる可能性は極めて低い。それが分かった上での撮影でしたけど…楽しかったです。それでも、大学を卒業するころには、そこそこのお金を貰えるようになっていました」
「当時は、学生時代から写真週刊誌や新聞社に写真を持ち込んで、少しずつ仕事を貰っている人は他にもいました。私も『フライデー』だけではなく、色々な事件の写真を新聞社に持ち込んでいました。結局掲載はされませんでしたけど。ただ、勝手に新聞の全日本写真連盟のコンクールに回されて、そこで一等になって掲載されたことはあります。それでも嬉しかったから、スクラップにして今でも持っています(笑)」
卒業を前に、宮嶋さんは報道機関1社、出版社1社、広告代理店1社の計3社の就職試験を受けた。しかし、結果は一次試験で見事にすべて不採用。それまでアルバイトだった『フライデー』の、正式な専属カメラマンとなる。
「もともと『フライデー』からも来ないかと誘われていたので、そんなに深刻には悩まなかったですよ」
「今でこそ写真週刊誌という媒体の登場によって、ある程度安定した環境が整ってきましたけど、ひと昔前の報道カメラマンの悲劇はさんざん聞いていましたから、最初からフリーの報道カメラマンになろうとは思っていませんでした。『フライデー』の専属カメラマンになれば安定した給料を貰えるし、ここでしばらく修行するのも悪くないかなと…打算的なところもありましたね」
『フライデー』といえば、有名人の私生活を暴露した写真など、時にプライバシーや人権を無視した過激な取材が批判を浴びることもあるが、宮嶋さんは、そのことに引け目を感じることはまったくなかったという。
「芸能人のスキャンダルや、アイドルのケツを追いかけることもひとつの報道写真だと思っているから、悪いことをしているとは思っていません。むしろ積極的にやっていましたよ。若かったし」
「週刊誌のいいところは、芸能、スポーツ、事件、事故…どこへでも行かされるところです。新聞社のカメラマンになったら、まずは間違いなく地方に飛ばされる。もしくは、記者としてしばらく修行を積んでから写真部へ異動するか。そういう意味では、週刊誌は即戦力で採用されてすぐに現場に投入されますから。本当にいい修行になったと思います」
「それから、週刊誌の場合はカメラマンと記者が分業制になっていて、いつも一緒に行動できます。けれど、フリーになると、写真から記事まですべてを自分ひとりで担わなければいけないから、独立した当初は本当に苦労しました」
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撮りたいものへの欲求
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1987年、宮嶋さんは3年間勤めた『フライデー』のカメラマンを辞職し、フリーの報道カメラマンとして独立。建前は円満退社ということになっているが、「実質は解雇でしたね」と苦笑する。辞職を考えるきっかけとなったのは、1986年にフィリピンで起こった政治変動だった。
「当時、フィリピンでの選挙を前に国民の不満が募り、国内が騒乱状態となっていたんです。何かが動き出す予感がして、私はどうしても取材に行きたかった。でも、『フライデー』からの取材チームは既に決まっていて、結局私は同行させてもらえなかった。それでも、どうしても行きたくて、当時結婚が決まっていたこともあり、新婚旅行のための休みを前倒しするということでOKしてもらったんです」
大事な新婚旅行を犠牲にしてまで行ったものの、結局大きな動きを見ないうちに宮嶋さんのタイムリミットは切れ、泣く泣く帰国することに。
「でも、私が帰国してから一ヵ月ほどして情勢が動きだしたんです。そのときも、どうしても取材させて欲しいとお願いしたけど、結局休みをもらえなくて…。その頃からですね、やっぱり自分が撮りたいものを撮れるような環境を作りたいと思うようになったのは」
「実は、辞職してフリーになってからも、一年間くらいは『フライデー』の仕事ばっかり貰っていたんです。フリーとしてのギャラは週給で貰えたから、専属カメラマンよりも歩合はよくて、結果的に収入はそんなに変わらなかった」
しかし、独立して一年が過ぎた頃から、『フライデー』編集部からの仕事がピタリと止まって回ってこなくなった。それ以後、現在に至るまで『フライデー』からの仕事はこないままだという。
「まあ、若かったこともあって…要は、マニラで『フライデー』の同僚からお金を借りて、それを女遊びだとかしょうもないことに使ってしまったんですよ(笑)」
独立し、唯一の大口収入源ともいえる『フライデー』とのコネクションを失った宮嶋さんは、カメラマン仲間2人と共に通信社を立ち上げた。
「人間って、なにか“所属本能”みたいなものがあるんですね。何らかのコミュニティーに属していないと不安になるんですよ。それで、同世代のフリーカメラマン3人で集まって、フォト・ニュースエージェンシーを立ち上げたんです。東京に『アルファープレス』という通信社を作り、マニラにもポストだけのオフィスとオペレーターの女の子を一人置いた」
「海外取材のプロセスについては、そのときに覚えていきました。どうやってお役所手続きをクリアすればいいのか、大使館や編集部からの推薦状が必要なので、どこに書類を提出すればいいのか…といったことをです。特にフリーの場合は写真が売れる云々以前に、まず現場に入って、そこで他の新聞社やテレビ局と同等の現場に踏み込むためにはどうしたらいいのか…少なくともそういったプロセスが大変なわけですよ」
「そして、撮れたからといって必ず売れるわけではない。むしろ売れないことの方が多かった。その辺で本当に苦しみましたね。『仕事に行く=お金を使う』でしたから。本来は取材にかかった経費の何倍ものお金を貰わなければいけないのに、実際には出ていく一方。すごく勉強になったけど、結構高い授業料でしたね(笑)」
同じドキュメンタリーの道を志す、3人の若手カメラマンによるエージェンシー。それは、報道カメラマンたちにとっての憧れともいえるロバート・キャパが発案し、アンリ・カルティエ・ブレッソン、デビット・シーモア、ジョージ・ロジャーらとともに創設した写真家集団「マグナム・フォト」の影響を強く受けていた。
「でもね、マグナムにはプリンターのコーネル・キャパがいて、キャパのガールフレンドが営業をやって…実際は写真家だけじゃなかたわけですよ。一方、私たちはカメラマン専門の人間が3人集まっただけ。その上、3人が3人ともフリーで『オレがオレが』タイプですから、ネタの取り合いにもなるわけです。だから、結局すぐにダメになりました(笑)」
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