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『私の異常な愛情 不肖・宮嶋流戦争映画の正しい観方』 740円/光文社 知恵の森文庫/2008年6月
※「三菱銀行北畠支店」 1979年、大阪市住吉区の三菱銀行北畠支店に猟銃を持った男が入り、人質とともに立てこもった事件。
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『不肖・宮嶋 戦場でメシ喰う!』 2‚200円(税込)/ワールドフォトプレス/2008年5月
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『不肖・宮嶋、再び。自衛隊レディース』 2‚200円/イカロス出版/2008年1月
※「サンテレビ・ガールズ」 神戸新聞社の連結子会社で兵庫県の独立UHF放送局が一般公募で選抜したキャンペーンガール
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『不肖・宮嶋 メディアのウソ、教えたる!(14歳の世渡り術) 』 1‚260円(税込)/河出書房新社/2007年8月
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カメラひとつで事件現場へ
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1961年兵庫県生まれ。父はサラリーマン、母は専業主婦。宮嶋家の一人息子として生まれ、両親の愛情を一身に受けて育つ。祖父から“写真好き”を受け継いだ父のおかげで、当時まだ貴重品だったカメラを、宮嶋さんは7歳のときに手にすることができた。
「ちょうど父が新しいカメラを買うというので、古いほうをもらったんです。当時、カメラはまだまだ高級品で、一家に1台はあっても、小学生の子供が自分専用のカメラを持っていることは本当に珍しかったんです」
「祖父も写真を撮っていて、6×6の二眼レフカメラを愛用していました。私が父からもらったのは、アイレスのレンジファインダー「35-3C」という古いタイプで、操作が非常に難しいカメラでした。動作も正常ではなかったので、まずは修理が必要な状態でした。確か、ニコンマウントのレンズで使えるものもあるんですが、私のカメラにはアイレスの純正レンズがついていました。49mmのf2.0だったかな。今でも正常に作動しますよ」
子供の頃からSLを見るのが好きだった宮嶋さんは、近くをSLが走ると聞くと、自慢のカメラを持って友達と出かけて行ったという。
「あの頃、フィルムの値段は今よりも高かったですから、好きなSLを撮りに行っても、せいぜい12枚もしくは20枚撮りフィルムを1本撮り切るくらいでした。それでも自分としてはたくさん撮っていたつもりだったんでしょうね」
「当時から、子供なりにですけど、写真については色々と考えていましたよ。近所に、カメラ好きの社交場と化したDP屋さんがあって、よくそこに通って、店のオヤジと写真のテクニックやカメラについて話をしていました」
後に報道カメラマンとなる宮嶋さんだが、“ただならぬ出来事”に引き寄せられていく習性は、小学生のころから既に見られたようだ。
「身近なところで事故や事件が起きると、よくカメラひとつぶら下げて出かけて行きましたね。洪水で「曽根」という駅が水浸しになったことがあった。鉄道が止まって、みんな学校を休んでいましたけど、私はカメラひとつ持って、6〜7駅分の距離を永遠と歩き続けたんです。学校に行くためというより、水浸しになった現場を見たかっただけですけどね(笑)」
普通多くの子供は、自分のごく身近な出来事や友人との遊びに夢中で、時事的な出来事には興味も関心もないことが多い。宮嶋さんのように、好奇心のアンテナが“事故”や“事件”に向いている子供の方が珍しい部類に入るのだろう。
「ただ、それでもやっぱり子供ですから…まだまだですよ(笑)。ちょうど私が高校生のときに、三菱銀行北畠支店(※)の事件があったんですが、あの時は行きませんでした。現場は大阪だったので、行こうと思えば行けたんですけど…あそこまで大きな事件になってしまうとね…なんだかフィクションのような感じがして、かえって現実味が持てなかったんでしょうね」
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中高一貫の名門私立校入学
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写真のほかに、宮嶋さんが父の影響を受けて熱中したものに、プラモデル作りがある。はじめは、隣で器用にプラモデルを組み立てていく父の指先を見つめ、出来上がったものをいじっては壊すことの連続だった。
「あの頃の接着剤は弱かったので、子供がいじるとすぐに壊れてしまうんですよね。小学校に入って、はじめて父と一緒に戦艦大和を作ったのを覚えています。それ以後は、自分ひとりで作るようになりました」
「写真を始めたきっかけとしては、父の影響はありますけど…でも私がカメラマンになることに対しては、父は否定的でしたよ」
小学校を卒業した宮嶋さんは、兵庫県内でも名門といわれる中高一貫教育の私立白陵中学を受験し、合格する。国立大学への高進学率が売りの学校だっただけに、先が保障されたかに見える進学に、両親はさぞかし喜んだことだろう。
「合格したのはよかったんですが、勉強が本当に厳しかった。英語の授業では、1年生が終わるころには、シャーロックホームズの原書を読まされるんですよ。だから、とても写真どころではなかった。再び本格的に撮り始めたのは、中学3年生で写真部に入ってからで、それからは、結構まじめに撮るようになりました」
「暗室作業を覚えたのもその頃です。私は暗室作業が好きだったので、よく入り浸ってプリントをしていました。元々、写真のメカニズムが好きだったんですよ。カメラのメカニズムから、フィルムの現像、プリントにいたる化学変化のプロセスがね」
写真部に入部し、益々写真に熱中していった宮嶋さんは、当時持っていた40ミリの単焦点レンズでの撮影に限界を感じ始めるようになった。
「遠くのものを近くで見たいという、漠然とした欲求でしょうね、望遠レンズがどうしても欲しくなったんです。父にお願いしようにも、ただでは買ってもらえないと思って。それで、しばらくの間猫をかぶって、父の前でいい子にしていようと考えました(笑)。息子の急な変わりようを不審に思った父は、当然『どうしんたんだ?』と聞きますよね。そこで『いや、実は…』と切り出したんです」
「父は、意外とあっさり買ってくれました。中古で安い標準レンズ付きのミノルタカメラと、新品の望遠レンズを一本。一眼レフは大人気でしたが、まだまだ高嶺の花ですからね、新品なんて買える余裕はなかった。だから、父にとっては、本当は交換レンズ一本でも厳しかったんじゃないかな」
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モデル撮影はむいてない
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一眼レフカメラと新品の望遠レンズを手にしてからは、一人でモデル撮影会に行ったり、学校行事やお祭の写真を率先して撮ったりと、益々写真の世界にのめりこんでいった。
「相変わらず、災害や事故があると撮りに出かけて行っていました。大雪が降ったとか、近くで火事があったとか、脱線事故だとか…。山口組と一和会の抗争のときは、学校の帰りに撮りに行きました。とにかく、私はそういうのが好きだったんです」
「単純だったんでしょうね。いい写真というのはピントが合っていて、フレーミングがしっかりしているものだ…くらいにしか思っていなかったから。芸術写真や心象写真のようなものよりも、インパクトのあるものに惹かれていたんだと思います」
時事ネタが好きだったとはいえ、ただ事件を追いかけ写真を撮って満足するのではなく、自分が撮った写真と新聞に掲載された写真を見比べるなど、いい写真とは? インパクトのある写真とは?…という追求心も忘れなかった。
「プロ野球観戦に行って撮影すると、翌日の新聞の写真と自分の写真を比べてみるんです。『僕の写真と何が違うんだろう』ってね。そんなことをやっている時間が楽しかったですね。学校の野球部の写真も撮っていましたけど、そりゃあ、プロの野球を撮っている方が断然楽しいですよね」
いわゆるドキュメンタリー写真だけではなく、明石城や神戸の六甲山などで行われる、地元テレビ局の「サンテレビ・ガールズ」(※)の撮影会や、大阪のモデル事務所主催の撮影会といった類にも、一人で足を運んでいたというが、人物ポートレートや女性のグラビア写真という路線にはまったく興味を示していかなかったようだ。
「モデル撮影会で撮った写真はね、お世辞にもうまいとは言えないものでしたよ。その時に、自分にはむいていなと悟ったんです。ホントにひどいものでしたよ(笑)」
「もちろん、“女性”というものに対する漠然とした興味はありましたけど…ただそれだけです。写真を撮ることよりも、むしろそっちの欲望が勝っていたかもしれないね。だって、水着を着た女の子をしげしげと見ることができるわけでしょ。普段はそんなチャンスないですからね(笑)」
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おごりと無知が成せる勘違い
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積極的に写真を撮り続けた中学最後の一年間が終わり、エスカレーター式に高校へ進学。そのころはまだ、カメラマンになろうという意識こそなかったが、自分の写真は他の人よりも上手いのではないかという自意識だけは十分に大きく育っていた。
「写真部の中では自分が一番上手いんじゃないかって、本気で思っていましたよ。まあ、初心者目から見た自画自賛に過ぎない…おごりと無知が成せる勘違いなんですけどね(笑)」
「もちろん、尊敬すべき先輩はいました。特に、鉄道写真の分野では、どこでどうやって撮ってきたんだろうって思うような写真もありましたから」
当時は、将来についてはどう考えていたのだろうか。
「漠然とした憧れの職業というのは、野球の選手、パイロット、刑事…など、普通に男の子が持つような夢ばかりでしたね。でも、近眼になった時点でパイロットは無理だと諦め、運動についてはほとんど素質の問題ですから、野球選手も諦めて…。勉強だって特別にできるわけではないから、刑事も違うかな…と。そういう意味では、仮に国立大学に入れたとしても、自分は何になればいいのかなって…不安というか、なんだか虚しい気持でした。でも、高校生になって、カメラマンになろう!と決めてからは、本当に気持ちが楽になりました」
宮嶋さんがカメラマンになろうと決意した背景には、20世紀を代表する戦場カメラマンとして知られるロバート・キャパへの強い憧れがあった。
「『ワイルド7』という、ちょっと色っぽくて、武器がたくさん出てくる、いかにも中学生くらいの男の子が好きそうな、望月三起也さんの漫画があるんです。あるとき戦争カメラマンをモデルにした番外編のようなものがあって、そこにキャパの名前が出てきた。それがきっかけで、キャパの著書『ちょっとピンぼけ』を読んでみたんです」
「当時の私は、カメラマンとしてのキャパというよりも、一人の人間としての、あまりにもドラマチックな彼の生き様に惹かれてたんですよね」
「幸い、自分の才能に自惚れていた私は、『写真がうまいんだから、俺もキャパに?カメラマンに?絶対になれるだろう』って信じて疑っていなかった(笑)」
「それからは気持ちが楽になりましたよ。俺はカメラマンになるんだから、勉強なんてできなくてもいいんだってね(笑)。もちろんそれは間違った考えですよ…。報道カメラマンは、写真さえうまければなれるような職業ではないですから。ただ、少なくとも、将来の夢が見えたことで気が楽になったのは確かです」
次週の配信(9/17)もどうぞお楽しみに!!
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