|
『日本の庭』 世界文化社 /2007年 1‚800円
|
|
『ブルー・ロータス』 評言社/2005年 3‚045円
|
|
変化の中で、自分がいるべき位置
|
“音楽を撮りたい”という強い思いを抱いて写真学校を卒業した内藤さんだが、当然、すぐに音楽に携わる仕事を得ることは難しく、しばらくは、写真に関わるアルバイトを転々とする日々が続いていた。
「あるヘルスセンターで、遊覧飛行に来るお客さんの記念撮影をする仕事をしているとき、たまたま東京で広告の仕事をしているというカメラマンが来たんです。その人と話をしているうちに、仕事口を紹介してくれることになって、次の日には面接を受けに行って、すぐにアルバイトをして雇ってもらうことになりました」
「その事務所は、新聞社の下請けだったかな…撮影した写真を何十枚もプリントして新聞社や様々な媒体の編集部に送るんです。もちろん全く使ってもらえないこともありましたよ」
「その仕事を通して、大事な瞬間というのは本当に一瞬しかないんだということを学びました。だから、撮影のときはいつもすごく緊張しましたよ。本当に基本的なことなんだけどね。その場の流れの中で自分がどの位置にいればいいのか、常に想像して予測する。それはジャズを撮るときでも全く同じなんだよね」
「僕は、スタジオでライティングをして撮影するというのが、昔からあまり好きじゃなかった(笑)。スタジオでの撮影というのは、自分で光の方向から被写体の位置まで決めて撮影するでしょ。でもジャズライブやアフリカでの動物撮影では、一瞬一瞬変化していく光や被写体の動きを常に意識していて、その中で自分がいるべき位置をとっていかないといけない。僕はその感覚が好きなんですよね」
相手と自分の間にある空間の、いつ動き出すとも分からない緊張感や、動き出した時の躍動感やグルーブ感、そういったものを体で感じ、感じたその瞬間にシャッターを切っている…。そんな被写体との“かけひき”のような、緊張感に内藤さんは引き込まれていったのかもしれない。
|
|
|
|
ニューヨークへ
|
事務所に勤めて一年が過ぎるころには、他からも仕事の声がかかるようになり、フリーカメラマンとしても少しずつ動き始めていた。そんなときに出会ったのが、建築、都市からファッションまでの多彩なプロデュース活動を手がける「浜野商品研究所」で働くデザイナーだった。以前から事務所の近くでよく見かけていた同年代の若者で、内藤さんも何となく気にかけていたという。その出会いを機に、内藤さんは浜野商品研究所のカメラマンとして働くことになった。
「浜野商品研究所では、メンズマガジンの草分け的な雑誌となった『stag』などの撮影をしていました。一方で、ライブハウスなどでジャズの写真も撮ってはいたんですよ。海外の大物ミュージシャンとなると、ライブの入場券は高いうえに、カメラを持って入ることができない。だから、少しずつ日本のジャズ・ミュージシャンを撮り始めていて、その延長で、渡辺貞夫さんや日野皓正の写真も撮るようになったんです」
「日野とはジャズ喫茶で出会いました。僕が日野の写真を撮りだしたころ、彼はまさに階段を駆け上り始めたときで、それからしばらくして一気に有名になっていった。その後4年間くらいは、彼のジャケットやカレンダー、広告用の写真のほとんどを僕が撮っていましたよ」
1970年、日野皓正氏との仕事で、憧れの地ニューヨークを訪れるチャンスを得ることになった。ニューヨークへ発つ前から、そろそろ写真集を作りたいと考えていた内藤さんは、帰国後、写真展『日野皓正の世界』を開催し、同タイトルの写真集を出版。そして、浜野商品研究所を辞職し、フリーのカメラマンとして独立、『Photo House OM』を設立した。
「やっぱり食べていくのは大変だったよ。音楽関係の仕事って、そんなにギャラは高くないからね(笑)。今でいえばJ-POP、当時だったら演歌の仕事だとギャラはよかったのかもしれないけど、ジャズなんて当時はレコードが3‚000枚売れればいい方だったから。でも僕はやっぱりジャズが一番好きだったし、一番面白かったんだよね」
|
|
|
|
ジャズの音色、被写体の音色、カメラマンの音色
|
「僕がジャズライブを撮りに行くときには、体の中にそのミュージシャンのアドリブの感覚とか、リードの感覚といったものがこびりついた状態で向かうんです。一回のライブを通して、“これだっ!”という状況や映像というのは、本当に一瞬しか現れない。そこを逃したら、普通の写真になってしまう。だから、ものすごい緊張の中で、できる限り完璧な状況で待つんですよ」
「今思えば、20、30代のころって、ものすごいエネルギーと感性がピリピリしていて、瞬間的に耳から目、指へと回路が繋がっていたんですよね。自分の目や指が追いついていかなかったら、いいカットなんて撮れないからね」
「ジャズの音色…というのは、写真でいうと露出、トーンなのね。よく適正露出というけれど、カメラが決めた数値ではなくて、自分で決めた適正露出で撮ることが大事なんですよ。現実に見えている映像そのままとは違う、写真になった時の感覚でいうところの被写体に合ったトーンがあって、その感覚は人それぞれ違う。…それが自分の感覚、音色だと思うんだよね」
「カメラは、それを一番目に近いレベルで作ってくれる。だから、作品として発表するときに、どのような音色を奏でるかが重要なんだよね。適正のままでいいのか、すこしハイキーにするのか…。空気感や、その画面の中に漂っている特徴…それらは被写体の音色でもあり、同時にカメラマンの音色でもあるわけ」
『“ジャズを感じることができた”という幸運のおかげで今の自分がいる』と内藤さんはいう。そしてそれが、写真家になった最大の理由でもあると。
|
|
|
|
これでいいんだ!
|
ニューヨーク訪問、写真集出版、そして独立と、順調かつ着実に自分の表現を追求しているかのように見えた。しかし、ニューヨークへ旅立つ前の内藤さんは、自分の写真表現について漠然とした不安を感じていたという。
「“いい写真”とは何なのだろうという疑問。写真家という道を選んでやってきたけど、自分がやってきたことは間違っていないのか。当時の僕は、その答えを探したいという思いでニューヨークに向かったんです」
「アーティストというのは、自分の才能の限界を知った時に、アーティストであることをやめてしまうんですよね。あるいは自殺するか…。自分にもいつかそういう日がくるかもしれないという思いがあって、そのことに対する恐怖心もあったわけですよ。だからすごく勉強したし、自分の可能性を掘り下げていこうと努力した」
「自分の持っている感覚を信じて追求していけばいいんだけど…でも現実的に食べていくためには、自分の感覚とは違う仕事もやらなければいけない。片方は、自分の中の妥協を許さない感覚的な表現。もう一方は、クライアントの言う通りにこなす仕事。そのふたつを同時にやっていると、時々ブレそうになってしまう。頭の中が曖昧になるというか…見失いそうになるんだよね」
「当時は、荒木経惟、森山大道、中平卓馬…といった、60年代の独特な写真家たちがいた。また一方で、立木義浩、篠山紀信、稲越功一…がいる。僕が突き詰めようとしていた写真は、そのどちらでもなかったんです。僕が求めていることというのは、もっとスピリチュアルというか感覚的な写真だったから…。でも、現実には、彼らは日本の写真界で高い評価を受けている。そういったことにも漠然とした不安を覚えたりすることがあったんです」
「でもね、ニューヨークに行って、色々なギャラリーや美術館をまわってみて、“あ〜、これでいいんだな”って思えたんです。そこにあったものは、みんなすごく独創的で、個性的で、“本当に色んなものがあっていいんだな”って分かったんですね」
次週(5/28配信)もどうぞお楽しみに!!
【内藤忠行写真展&講演会】
内藤忠行 写真展 「アフリカン・バイブレーション」 ■7月2日(月)まで ■10:00〜17:30 入場無料 ■日曜・祝日休館 ■キヤノンギャラリーS 東京都港区港南2-16-6 CANON S TOWER ■問 03-6719-9021
講演会 ■6月16日(土)13:30〜15:30 ■キヤノン S タワー 3階 キヤノンホール S ■1964年から撮りだした最初のテーマ「ジャズ」から現在に至る写真表現の可能性とその思いを語る。 語り合う人 高橋周平(多摩美術大学助教授) ■定員300名 ■申し込みはこちらから
|
|
|
|
 |