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『日本の庭』 世界文化社/2007年 1‚800円
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『ブルー・ロータス』 評言社/2005年 3‚045円
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浅草生まれ、小岩育ち
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1941年 東京浅草生まれ。
「生まれは浅草なんだけど、3歳から終戦まで福井県や伊豆の方に疎開していて、終戦後は小岩の親戚の家で育ちました」
「当時の小岩は、川や田んぼがたくさんあってね。何も無い時代だったから、自然の中で虫を捕まえたりして、朝から晩まで疲れきるまで遊んでいましたよ。僕はガキ大将タイプで、メンコやベイゴマ…何をやっても強くて、遊びに関してはトップクラスでした(笑)。でも学校の勉強は全然しなかったなぁ(笑)」
「それと、昔から物を作るのが好きでしたね。自分でおもちゃを作ったり、既存のものをアレンジしたりして遊んでいました。僕にとって“遊ぶ”ということは、自分で創造することに近い感覚だったんですね」
内藤さんの父親は、戦前浅草で洋食屋さんを営んでいた。女手ひとつで子供を育てた祖母が作り上げた、当時の浅草でも数少ない洋食レストランだったという。
「浅草というのは芸能の街でしょ。祖母のレストランには、かけだしの芸人さんがよく来ていたようですよ。僕の母も長唄や小唄が好きで、生徒を持って教えていたみたいです」
浅草は、大正末期から昭和初期にかけて、モボ(モダンボーイ)やモガ(モダンガール)といわれる、最先端のファッションを身につけた人たちが集まるような、まさに“モダン”な街だった。しかし、1945年のアメリカによる東京大空襲を免れることはできず、このモダンな街も焼け野原と化した。
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“自然”と“音楽”
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戦後、内藤一家は、焼失した浅草の家を離れ、親戚が住む小岩へ移り住むことになった。そして、アメリカ進駐軍が流れ込んでくる中で、内藤さんの父親は、芝浦にある将校キャンプのコック長としての職を得ることができた。
「米軍キャンプに出入りするようになって、親父はFENラジオという進駐軍放送をよく聴いていたんです。FENでは、世界中のポピュラー音楽やシャンソン、ラテンなど何でも流れていた。だから、僕は子供のころから、母の長唄と、父のラジオから流れてくる海外の音楽の両方を聴いて育ったんです。僕の中では、特に邦楽とか洋楽といった区別もなく、ごく自然にその両方を聴いていました」
「小学校4〜5年生の頃は、当時の洋楽のスタンダードといわれる曲はほとんど知っていたと思います。当時は、イブモンタンの『枯葉』やコール・ポーターという作曲家の『Begin The Begin』、ホーギー・カーマイケルの『Stardust』なんかが好きでした。メロディーがきれいだったり、ハッピーな感覚だったり、楽しい曲が好きでしたね。ジルバやスイング、ラテン、シャンソン…あまり隔たり無く、メロディーやリズムが、ふっと自分の中に入ってくるような曲を聴いていて、それが今の自分の原点になっていると思います」
家では、日々聞えてくる新しい音楽に感化される一方、小岩の自然や生き物たちも、感受性豊かな内藤さんに大きな影響を与えてくれたようだ。
「僕は釣りや昆虫採りが好きでね、採ってきた魚や虫、鳥などの生き物をよく家で飼っていました。生き物を捕まえるときってね、その場の空気にいかに溶け込むかが大事なんだよね。じゃないと逃げちゃうでしょ。捕まえるセンスというか…、相手のテンポを把握して、動きを予測しないといけない、このフィーリングとタイミングは写真を撮るときと同じなんですよ」
「とにかく、生活の中にはいつもたくさんの生き物たちがいて、僕は、どうやったらより自然に近い空間を作って、彼らを長く生かしておいてあげられるかって考えていました。彼らは僕の友達だったから、何か言葉ではない会話をかわしているような、そんな感じがしていたんでしょうね(笑)」
「そうやって今思い返してみると、やっぱり僕は“自然”と“音楽”がすごく好きだったし、そのふたつが今でも僕の中のテーマになっているんですよね」
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“自分好み”のスタイルで…
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中学校を卒業した内藤さんは、夜間の工業高校機械科に進学した。しかし、小学校、中学校に引き続き、学校の勉強にはいまいち熱が入らず、このころになると学校をさぼっては“ジャズ喫茶”に入り浸るようになっていた。
「ちょうどこのころ、モダンジャズと出会ったんだよね。そして17、18歳のときかな、僕のヒーロー、マイルス・デイビスに出会ったんです。マイルスがカバーしたスタンダードの『枯葉』を聴いたとき、僕はものすごい衝撃を受けた」
「人間が作ったもの、表現したもので“かっこいい!!”と思ったのは、本当に生まれてはじめてでしたね。心の底から“この音楽ってすごいな!”って思ったんです」
「それまでは、まず原曲の美しさがあって、そこに詩がついているという感じだった。でもマイルスが演奏した『枯葉』は、原曲の枯葉への導入部であるイントロが、これまでのものとは全く違っていたんです。あんなに自分が動かされたのははじめてでしたね。そのときに、僕ははじめて“表現”とか“創造”というものを感じた。そしてその“創造の仕方”というのが、今でも僕の原点であり、手本にしている基本的なところなんだよね」
このジャズとの出会いによって、内藤さんは益々音楽にのめりこんでいった。
「当時の僕にとっては、他のどこよりも“ジャズ喫茶”が自分の居場所だった。ジャズのサウンドは自分の感覚にすごくピッタリときていたし、そういう感覚を話せる相手が僕の周りにはいなかったからね。やっぱり、子供のころから培われてきた音楽の土台があったからこそ、“新しい”ものを“新しい”と感じることができたのかもしれない。次第に僕は、音楽と音楽家のすばらしさを伝えたいと思うようになっていって、それから音楽について猛勉強をはじめたわけです」
「実は僕も、子供のころに音楽をやってみようと思って、ハーモニカを練習していたことがあったんです。でも全然ダメでしたね(笑)。譜面通りには、なんとなくできるんだけど…アドリブ的な演奏となると、頭の中には描いている音のイメージがあるのに、それを全然表現できない」
「続けて練習すればよかったのかもしれないけど…僕は、何に関しても、閃いたものがすぐに表現できないとダメ。もちろん、しばらくは続けてみたけど、自分の思う通りに、滑らかに曲の美しさを表現できなくてね。その時点で“音楽家”というジャンルはあきらめたんです(笑)」
「文学、絵画、彫刻…と、自分の気持ちを表現する手段というのはたくさんあるけど、その中で僕は写真を選んだ。写真なら自分の言葉に近い、ある意味では言葉以上に、自分の気持ちに近いものを表現できると、直感的に思ったんだよね。それは錯覚かもしれないけど、少なくとも当時の僕はそう感じたから写真を選んだんだ」
「楽器や声にはね、“音色”があるんだよ。ジャズの場合、これはマイルスのトランペットの音だなとか、このテナーサックスはジョン・コルトレインだ、というのがある。それぞれが、独特のスタイルや自分にふさわしい音色を創造してきているんだよね。その“自分好みの…”ということであれば、僕も表現できると思ったんだ。音楽の中で、自分のバイブレーションとサウンドが繋がっていく感じをね」
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1964年初めてジャズのライブを撮ったときの写真
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隠し撮りから始まったジャズ撮影
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内藤さんは”ジャズ喫茶”と夜間高校へ通いながら汽車や電車を製造する会社に勤めていました。設計された図面を見ながら床面に実物大に書き起こし、それぞれの工場がどんな型をしたものを何個造り、どのように組み立てるかをまちがえないように伝える仕事をしていたという。
「思い出に残るのは初代新幹線こだまの前頭部を制作するチームに参加したことです。新幹線は、自動車みたいに大量生産するものではないから、プレス型を作ることができないんです。だから、ひとつひとつ板のカーブを叩き出していくんですよ。平面図、側面図、断面図だけでなく、どこから見ても滑らかなカーブが作れるように、あらゆるカーブの図面と型を作っていく」
「それなりにやりがいもあったんですけど一生の仕事ではない、何か作るのが好きと言っても、技術的なものだけでなくもっと詩的で感覚的な世界を求めている自分をそのとき分かりこの会社を辞めました。その仕事の体験がゼブラのShapeに生かされたのですから。不思議ですね」
大好きなジャズからインスパイアされ、その感覚のすばらしさを伝える手段として、写真の道へ進むことを決めていた内藤さんは、東京デザイナース学院写真科に進学。
「実際に学校で学ぶことはあまりなかったかな(笑)。独創的な写真家になりたかったから、本当はとても不安だったんですよ。だからそのころまでに、独学で写真も撮っていたし、暗室セットも買って自宅の押入れでプリントしていたからね」
「ただ、学校では友達がたくさんできたし、その中にはジャズ好きなヤツが一人いたんですよ。1964年の日比谷野外音楽堂でワールド・ジャズ・フェスティバルは彼と一緒に行きました。僕は、ジャンパーの中にカメラを忍ばせて入った。それが、僕が撮ったはじめてのジャズだったんです」
次週(5/21配信)もどうぞお楽しみに!!
【内藤忠行写真展&講演会】
内藤忠行 写真展 「アフリカン・バイブレーション」 ■5月17日(木)〜7月2日(月) ■10:00〜17:30 入場無料 ■日曜・祝日休館 ■キヤノンギャラリーS 東京都港区港南2-16-6 CANON S TOWER ■問 03-6719-9021
講演会 ■6月16日(土)13:30〜15:30 ■キヤノン S タワー 3階 キヤノンホール S ■1964年から撮りだした最初のテーマ「ジャズ」から現在に至る写真表現の可能性とその思いを語る。 語り合う人 高橋周平(多摩美術大学助教授) ■定員300名 ■申し込みはこちらから
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