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『地球巡礼』 新潮社/2006年 5‚775円
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『異次元の大地へ』 高知新聞社/2005年 3‚300円
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『エチオピア黙示録』 岩波書店/2005年 6‚200円
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『祈りの回廊』 小学館文庫/2004年 838円
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まずは写真の世界に入ること
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プロカメラマンへの道をスタートする第一歩して、多くのカメラマン志望者がそうであるように、野町さんもカメラマンのアシスタントとして経験を積むことから始めた。
「川崎さんの知り合いの、羽田さんという広告写真家のアシスタントにさせてもらったんです。何よりもまずは、写真の世界に入ることが大事ですからね」
「そのアシスタントをしていた頃も、出版社に写真を持ち込んだりしていましたよ。羽田さんのところにいたころ、確か22か23歳のときだったかな。アサヒカメラに写真の持ち込みをしたら、8ページのグラビア掲載してもらったことがありました。なんと8ページで16万円。1ページあたり2万円のギャラです。当時にしたらいい金額ですよね。16万の為替小切手が送られてきたときには、本当にびっくりしました」
「羽田さんのところには1年ちょっとお世話になりました。その後、羽田さんのお弟子さんが、神奈川県の厚木の方にいるということで、そこで1年ほど助手をして…それから東京に戻って、杵島隆さんに弟子入りしたんです」
「杵島先生のところへは、もちろん自分で連絡をし、会っていただきました。その頃には、僕も結構写真を撮っていましたから、作品をまとめたブックを持って売り込みにいったんです」
「ちょうどその頃、杵島さんのところに、岬の灯台の本を作るという企画があったんですよね。そこにたまたま僕が売込みに行ったものだから、『じゃあ、撮ってみるか?』って言われ、『はい、お願いします』っていう感じで決まったんですよ(笑)」
「でもね、その灯台の企画はボツになっちゃったんです。全国を網羅する企画で、僕は九州と四国を撮っていた。結局食えなくなって、僕はそのまま杵島さんのところでアシスタントにもぐり込むことになった。最初の1年くらいはアシスタントをやって、次の1年はある程度仕事もこなせるようになっていたから、チーフカメラマンとして撮影していました」
アシスタントをしながら、野町さん自身の作品としてはどのような写真を撮っていたのだろうか?
「僕自身は、ドキュメンタリーというか、心象風景的なスナップショットが多かったかな。例えば、今はもうなくなってしまったけれど、東京の“夢の島”とかね。スタジオでの人物撮りやブツ撮りには、あまり興味がなかったから、休みの日にスタジオで自分の作品を撮ることはなかったかな」
会社を辞めてまで飛び込んだ写真の世界だったが、このころの野町さんにはまだ、どんなカメラマンになりたいかという具体的なイメージは見えていなかったという。
「アシスタント時代というのは、とにかく目の前にある仕事をこなしていくといった感じだったし、当時はまだ、具体的な活動内容を考えるような段階でもなかったしね。でも僕にとっては、写真を撮ること自体がすごく楽しかったから、会社を辞めたことを後悔したことはなかったですよ。“どうやってご飯を食べていこう”とか、そんなこともまだ考えていなかったと思います」
杵島スタジオのアシスタントになって2年後の1971年4月、野町さんは独立し、フリーのカメラマンとしての活動を始める。
「杵島先生というのは、女性のヌードなどグラビア写真を中心に撮っていたんですね。そうすると、毎日のように女性の裸を見るわけですよ。しかもモデルさんは同世代の女性ばっかり。だんだんそれが嫌になってきちゃってね(笑)。自分の性に合わなかったんだろうと思います」
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想像を超えるスケールで広がるサハラ
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フリーになった野町さんは、数人のカメラマン仲間と事務所を構え、広告写真を中心に活動の幅を広げていった。
「事務所はみんなでシェアして、家賃も分担していましたけど、それぞれが自分の事務所名を持っていて、自分の仕事は自分でとってきてこなすという感じですね。僕は広告中心で、当時は『STUDIO NOM』という名前でやっていました。商品やモデルも撮っていましたけど、タレントさんの撮影が多かったかな」
「はじめの頃は、杵島先生のところでチーフカメラマンをやっていた時に知り合った人から仕事をもらっていました。そんな感じで、割と順調に色んな仕事をやっていたんだけど、なぜか“これが自分の仕事だ”っていう意識があまり持てなかったんですよね」
フリーカメラマンになって1年ほど経った1972年の冬、野町さんは同じ事務所の仲間に誘われてヨーロッパへスキー旅行に出かけることになった。
「仲間の中に山形県の出身が一人いたんです。彼はスキーが好きでね、僕もよく山形に遊びに行って、一緒にスキーをしていました。ある時、彼がスキーのインストラクターたちとヨーロッパへ行くけど、僕も一緒に行かないかって誘ってくれたんですよ」
「そんなわけで、彼らと一緒にヨーロッパへ行くことになった。ヨーロッパ・アルプスで2週間くらいスキーを楽しんで、それからパリに戻って解散ということになったんです。でも、僕とその山形の友人は、そのまま帰国せず、せっかくここまで来たんだから、サハラへ行ってみようということになったんです」
「僕の中では、本当に漠然とだけれど、砂漠に対する憧憬みたいなものがあったんですよね。だから、日本を発つ時からサハラには是非行ってみたいと思っていたんです」
「まず僕たちがやったことは、中古の車を買うこと。地図を見たら、サハラ砂漠って、ヨーロッパから地中海を越えたらもうすぐそこに広がっているんですよ。しかも相当奥地まで舗装道路が延びている。地図の上に『SAHARA』という文字を見つけた僕たちは、そこを目指して走り始めたんです」
二人は、スペインからジブラルタル海峡をフェリーで渡って、そこからモロッコ、アルジェリアと車を走らせていった。
「実際にサハラに着いてみると、そこにはどこまでも続く砂の世界が広がっていた。もう圧倒的なスケールですよね。これが大きなきっかけとなって、何かこう、砂漠に引っ張られるように、その世界にとらわれていったんです」
次号(3/19配信号)もお楽しみに!!
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