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STILL LIFE a moment's eternity 『一瞬の永遠』 アートン/8?820円
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HASHIGRAPHY Future Deja Vu 『未来の原風景』 アートン/8?820円
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『十万分の一秒の永遠』 著=立松和平 写真:HASHI(橋村奉臣) アートン/1?260円
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いざニューヨークへ…?
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アートセンターで勉強するという目標がなくなった橋村さんは、このままロスに残るのではなく、ニューヨークへ行くことを決めた。日本を発つ前から、“写真の世界でやっていくなら、いつかはニューヨークへ行こう”と決めていたという。
「当時から、ニューヨークの治安はいいとは言えず、殺人事件など様々な情報が僕の耳にも入ってきていました。でも、ニューヨークでどんなことになろうとも、僕の中では行きたいという思いが強かった。最後はニューヨークしかなかったんですよね」
ロスでの10ヶ月間の滞在の後、橋村さんは、大陸横断バスに乗ってニューヨークを目指した。
「ニューヨークに着いたら、僕はまず本屋さんに行って、好きなカメラマン、特にファッション系のカメラマンの名前を探しました。次にイエローページ(電話帳)で調べて、片っ端から電話をかけたんです。時には同姓同名の関係ない人にかけてしまったこともありました(笑)」
このときのニューヨーク滞在中に、橋村さんは、縁あってリチャード・アベドンに師事したジェイムス・モアのアシスタントになれることが決まったのだった。
「僕は、喜んでロスへ戻って、もうすぐにでもニューヨークに来ようと思っていました」
しかし、ニューヨークでの新たな道が開けたその矢先に、思わぬアクシデントが橋村さんを襲った。
「再びニューヨークへの旅立ちを翌日に控えて、日曜日に僕は教会へ行ったんです。これからの自分の将来についてのお祈りしようと思ってね。そして、教会の駐車場に車を止めようとした時、後ろから来た車にぶつけられたんです」
「その時の衝撃で、僕は鞭打ちになってしまった。そして、さらに運の悪いことに、その日の夕方に売る予定だった僕の車は、前日の土曜日で保険が切れていたんですよ」
「これでもうニューヨーク行きはキャンセルです。当然、ニューヨークで見つけてきた仕事も流れてしまった」
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ライティングは、見て感じて覚える
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ニューヨーク行きのチャンスを失った上に、鞭打ちの状態は一向によくならない。自らの車の保険だけでなく、ぶつけて来た相手も人身事故の保険はかけておらず、医療費はかさむ…。これまで走り続けてきたカメラマンへの道に、初めてストップをかけられたような、空白のときだった。そんな時に、知人から針灸治療を薦められた橋村さんは、一度日本へ帰国することにしたのだ。
「家族には、僕が一時帰国することは隠しておいたんです。もちろん、実家には立ち寄らなかった。母に会ったら、引き止められるのが分かっていましたらね」
「結局、針灸治療が効いて、鞭打ちは治ったんだけどね。またゼロからのスタートですよ。ニューヨークでの仕事も失って、お金も使ってしまったから、仕方なくロスのプロラボでアルバイトをすることにしたんです」
「僕は、ハワイへ旅立つ前に、日本のラボで少し働いていたんですよ。当時僕は、日本を出る前に、準備できることは何だろうって考えたんです。言葉はネイティブのように話せないし…。じゃあ、言葉が話せなくても、技術を身に付けることができるもので、なおかつ写真のことが勉強できる仕事がいい。それがプロラボだったんです。結果的にプロラボでの経験が、ハワイでもロスでも、そしてニューヨークでも役に立ちましたよ」
「鞭打ちが治って、ニューヨークに行った時も、すぐにラボで採用してもらえました。その時は、夜7時から朝までの夜間深夜勤務だったので、その収入で生活を安定させて、昼間はアシスタントの仕事を探していました。僕は、若いころから、基本的にあまり睡眠をとらなかった。それは今でもあまり変わらないですね」
2度目のニューヨーク訪問から数ヶ月の後、ようやくフォトグラファーのアシスタントの仕事が見つかった。クリス・ヴァン・ワンゲンハエムといって、ヘルムート・ニュートンの友人で、雑誌『ヴォーグ』などの仕事を手がけるドイツ人ファッション・フォトグラファーだった。
「働き始めたときは、本当に大変でしたよ。彼は、アシスタントとの間に距離をとっていて、朝スタジオ入りしてから、最後までほとんどずっと会話がないんですよ。つまり、アシスタントとは口をきかない人だったんです。とにかく、アシスタントは、口答えせず、彼の言う通りに黙って働く。それだけでした」
ライティング技術や知識は、どうやって身に付けたのだろうか?
「68年にハワイに行って以来、僕は写真でご飯を食べてきたわけだから、もちろんストロボを使った、スタジオでの撮影も経験していたし、それで仕事もしていました」
「ただ、ライティングの勉強というのは、僕は特にしていないんですよ。僕がライティングを勉強したとすれば、それは18歳のときですね。当時付き合っていた彼女を月の光で見たときです。その時にね、“月の光というのは、こんなにも女性を美しく、ロマンティック見せるんだなぁ”って思ったんです。そして、“光によって、すべてのものは本当に見え方が変わるんだ”っていうことを学んだ。本来ライティングというのは、自分で見て、感じて覚える、感覚として身に付けていくものだと思うんです。写真をやる人にとって、光を感じるというのは必要不可欠ですよね」
「結局、そのフォトグラファーの元で10ヶ月くらい働いて、その後、スティル・ライフのフォトグラファーに師事しました。この時も、ボスから認めてもらうために、僕はトイレ掃除から、何から何まで徹底的にやりましたよ。暗室での仕事も、早くて丁寧だと言われるようになって…そうしたらボスは、僕の先輩をクビにして、その代わりに僕が二人分の仕事を任されるようになったんです」
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人の二倍働いて、二分の一で独立
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ニューヨークに来てから、2人のフォトグラファーのアシスタントを経て独立するまで、その間約1年半。3〜4年のアシスタント経験を経て独立する人がほとんどであるにもかかわらず、橋村さんは、通常の二分の一の期間で独立を果たしてしまった。
「アシスタントを何年も経験しないと、独立なんてできないよって、みんなに言われていたんです。でも僕は、アシスタントなんて何年もやりたくなかった。早く独立したかった。そのために僕はどうしたかって、とにかく人の倍働こうと思ったんです」
「人がやりたくないことを、徹底的にやってやろうって。ボスの前では真面目に働くけど、ボスがいなくなると、手を抜く人っていっぱいるんだよね。僕は、それが不思議でたまらなかった。だって、一日も早くカメラマンとして独立したいのに、なんで手を抜くんだろうってね」
「1日8時間働いて、2年間のアシスタントを経て独立できるのなら、その倍働けば1年で終わるんだって、ものすごく単純な計算ですけど、僕は本当に他の人の倍働きましたよ。まずは、自分の上の人のポジションを目指して、次々に上を上を目指していった」
「今考えると僕はね、本当に心構えが違いましたよ。だからボスからの信頼はすごく厚く、何かあればすぐに僕が呼ばれていました。アメリカ人と比べて言葉が完璧じゃない分、相手が何を求めているのかを察するのが早かったと思います。『一を知れば十を知る』みたいなところがあったね。彼らがリアクションしたときに、次に何を求めているのかがよく分かったんです」
次回(12/11配信号)はいよいよ最終回です。どうぞお楽しみに!!
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