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STILL LIFE a moment's eternity 『一瞬の永遠』 アートン/8‚820円
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HASHIGRAPHY Future Deja Vu 『未来の原風景』 アートン/8‚820円
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『十万分の一秒の永遠』 著=立松和平 写真:HASHI(橋村奉臣) アートン/1‚260円
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仮に失敗しても潔し
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1968年、かつてブラジルへ移民する日本人を乗せた『ぶらじる丸』は、橋村さんを乗せて、横浜港からハワイへ向けて出航した。その時に、出航する船の上の橋村さんと、桟橋から見送る友人が、お互いに撮り合った写真がある。そこには、桟橋の見送り人との別れを惜しむ乗客の後ろで、カメラ片手に、両手を挙げて飛び上がる22歳の橋村さんがいた。
「初めての海外ですから、もちろん不安がないことはなかったですよ。でも、中途半端に生きながらえるよりは、やるだけのことはやって、志半ばで倒れてもいいって思ったんです。僕は何かに直面するたびに、そういう思いで臨んできたし、だからこそ今日の僕があると思います」
実際のハワイでの生活は?
「僕は永住権がないから、ビザの更新が大変でした。僕は観光ビザで行ったんだけど、学生ビザに切り替えるとなると、学費を払わなければいけない。後にスポンサーになってくれる人と出会って、学生ビザをとって、最初語学学校に通うこともできましたけどね」
「ハワイでは、スチューデントハウスという、安くて汚いところに泊まっていました。その前は、テントで生活したこともあったし、屋根はあるけど壁はない、掘っ立て小屋みたいなところに住んだこともある。学生ばかりではなくて、それこそヒッピーみないな連中がいたり、当時のバックパッカーや、ベトナムからの帰還兵なんかも泊まっていました」
「語学に関しては、日本で事前に英語学校に行ってはいたんだけど、それでも現地でかなりのレベルまで達するまでには、やはり2年くらいかかりましたね」
写真家になることを目指して日本を離れたわけだが、ハワイではどのような形で、写真に関わる活動をしていたのだろうか?
「ハワイでは、最初の1年で、ある程度きちんと生活ができるようになりました。すぐに写真の仕事も見つかったし、大学講師の助手もやりましたよ。講師と一緒にクラスに行って、僕も片言の英語でプリントの仕方なんかを教えていたんです。学校は1年弱で退学したけど、カメラについての知識は十分あったからね」
「この大学の講師はハンガリー出身のカメラマンだったのですが、彼は僕のスポンサーになってくれたから、彼のスタジオでも働きましたね。でも給料はなかったんですよ。“あ〜、カメラマンって結構お金がないんだなぁ”って、その時に思いました(笑)」
「カメラマンでお金がないというのは、結構悲劇ですよね。だって、機材が買えないんだから。お金が全てではないけれど、カメラマンとして、自分の表現をしていくためには、やはりある程度お金がないとできないですよね」
「もちろん、写真の仕事以外にも、皿洗いの仕事なんかもやっていたから、当時は1日16時間くらい働いていました。人間って、みんな平等に24時間が与えられているけど、その同じ時間をどう過ごすかは、本当に人それぞれでしょ」
「今回の写真展の作品も、ほとんどは仕事の合間や仕事の後、それと週末に撮った作品なんです。その中から実際にコマーシャルに使われたものもありますが…。でも、基本的には仕事あっての作品ではなくて、あくまでも自分の作品を、広告に使っていただいたものなんです。僕の場合は、今も昔も変わらず、本当に写真を撮ることが好きだから、時間があれば写真を撮っていますね」
「やはり、何かをやり遂げるためには、何かを犠牲にしたり、我慢したりしなければいけないんですよね。僕の場合は、写真のために何かを我慢することが、全く苦にならなかった。むしろ、自分が納得できるものを残せないことのほうが、僕にとってはずっと辛いですからね」
橋村さんの中では、頑張ればいつか自分は成功するだろうという、確信のようなものはあったのだろうか。
「ん〜、あったかな。もちろん、日本を発つときは分からなかったよ。でもね、僕は色々とぐじゃぐじゃ考える前に、いつでも『仮に失敗しても潔し』という思いでいましたから。もちろん、失敗するかもしれないという不安はありましたよ。それは無いと言ったら嘘でしょ。でもね、やらなかったら失敗することもできないわけですから。それってつまらないじゃないですか。失敗することを恐れたら、前には進めないんですよね。僕は本当に色んな人に救われましたね」
「ハワイ滞在中、ありがたいことに、ある人の助けによって、僕は永住権を取得することができたんです。少しずつ貯めたお金で、機材も買い揃えて、そのころには語学もかなり身に付いてきた。いろんな意味で条件が整って、少しずつアメリカ本土へと旅立つ準備ができてきていたんです」
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ハワイからアメリカ本土へ!
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ハワイに来て3年半の月日が流れ、橋村さんはハワイからアメリカ本土へと渡った。
「僕はロサンゼルスにある『アートセンター・カレッジ・オブ・デザイン』に行きたかったんです。だから、入学するための資金も貯めていましたよ」
「もちろん、そのままハワイで生活していくこともできたんですよ。楽しかったしね。僕の永住権取得をサポートしてくれた、営業写真館のオーナーからは、パートナーシップを組まないかという誘いもあった。僕はある程度お金が貯まったらハワイを出たいという旨を伝えて、その上で、お世話になった人でもあるので、できるだけ長くその人のところにいました。でも、歳をとってからハワイに住むのはいいけれど、僕としてはやっぱり、若いうちにアメリカ本土で勝負してみたかったんです」
「いざロサンゼルスでアートセンターへ行ってみたんだけど…またしてもダメだったんだよね(笑)」
「僕は、昼間仕事をして、学校は夜間部に入ったんですが、今さらこんなことを習っても仕方ないなぁって思ったんです。そして、昼間部の生徒の卒業制作を見せてもらった時に、“あ〜、ここじゃないな”って思った。ここで何年か勉強して、その結果がこのレベルだったら、とてもじゃないけどたまらん!と。月謝も高いしね」
「学校って、いい先生に出会えたらいいんだけど、そうじゃない場合に怖いのは、先生の主張にすごく影響を受けてしまうところなんですよ。その先生は、本当に生徒を育てようという思いで授業をしているのか、それとも自分が正しいと思っていることを押し付けているだけなのか…残念なことに、実際には後者の方が多いように思うんですよね。決して、それが悪いとは言いきれないけれど…でも本当にいい先生というのは、なかなか巡り会えないんですよね」
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自分には何が残せるのか
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教わる側から、先輩として若いアシスタントを教える立場になった今、橋村さん自身は、どのようなことを意識して指導しているのだろうか。
「若いスタッフには、“僕のスタイルを真似することは決してプラスにならない”って言っています。また、“こう撮らなければいけない!”ということも言わない。ただ、プロフェッショナルとしての考え方や、進む方向性などについては、僕の経験を聞いておいて損はないよ、とは言っていますけどね」
「日本ではね、何かにつけて、これはどのカメラで撮ったのか、どういうライティングなのか…そういう質問が非常に多いんです。でも、それって本当にナンセンスだと思うんですよ。だって、あまりにも技術的な点ばかりに目が向いているということでしょ」
「画家をはじめ、他のアーティストの作品を見たときに、“これはどこの絵の具を使っているんですか?”なんて聞かないでしょ。“何故この作品を作ったのか”とか、そういうところから入りますよね。それは写真も同じなんですよ」
「写真の作品を見たときにも、“自分だったらどう撮るかな?”と、それを考える力を養うことが教育だと思うんですよね。だから、僕はスタッフには絶対に教えないですよ。それは、よく言われる“技術は見て盗め”ということではない。やはり、大事なことは、“自分の中で自然に沸き起こってくるもの”だと思うんです。だから、それをやりたいのか、やりたくないのか、そこから始まった方がいいと思うんです」
「みんなそれぞれ、自分の美学を持って取り組んでいるんですよね。若いから分かっていないんじゃない。若い人は若いなりに、ものすごく分かっているんですよ。僕だって20代のころ、結構いい作品を残していますよ(笑)。それに、若くて才能がある人を、僕もたくさん見てきていますから」
「やっぱり、“自分には何が残せるのか”それを問いかけて、見つけ出してほしいなと思うんです。それが、若い人たちに受け継いでほしいことですね」
「実は、僕の息子もカメラマンなんです。でも、僕は息子である彼にも、僕の作品に関する技術的なことは教えていないですよ。もちろん基本的なことや、その時々のアドバイスはしますよ。でもそれ以外は教えない。何故なら、教える必要がないからです。彼は彼の道を行くべきだと思うから」
「息子は写真学校へ行ったことがないんです。僕は決して、学校が悪いと言っているんじゃないんですよ。ただ僕自身が、写真学校や大学で良い指導者に会わなかったから、だから“あえて行く必要はない”と言ったんです」
「もちろん写真の基礎知識や技術は、勉強が必要です。でも、“写真家”というのは、自分でテーマを見つけてやるものだと思う。学校では課題を与えられるけど、写真って本当は、誰かに言われてやるものじゃないんですよね。本当にやりたかったら、自分でやるべきでしょ」
次回の配信(11/27号)もどうぞお楽しみに。
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