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STILL LIFE a moment's eternity 『一瞬の永遠』 アートン/8‚820円
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HASHIGRAPHY Future Deja Vu 『未来の原風景』 アートン/8‚820円
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『十万分の一秒の永遠』 著=立松和平 写真:HASHI(橋村奉臣) アートン/1‚260円
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変わり行く時代の中で
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1945年、第二次世界大戦終結の2ヶ月前、大阪府茨木市に生まれる。 兄が一人と姉が一人、3人兄弟の末っ子だった。父は、かつて船の通信士をしていて、戦後まもなく、橋村さんが2歳の時に栄養失調のため亡くなった。戦時中を生き延びたものの、橋村さんの父もまた戦争の犠牲者の一人となってしまったのだ。
「僕が生まれたのは、本当に戦争が終わる間際だったんです。もしあのまま戦争が長引いていたら、僕は無事に生まれてこなかったかもしれないと、母から言われました」
「僕の名前『奉臣』というのは、僕の命を天皇に奉(たてまつる)るという思いで親父がつけてくれたんです。当時はね、今では考えられないくらい日本全体が貧しかったでしょ。それに、それまでの軍国主義から民主主義へと、社会全体が思想から大きく変わっていった時代だったんですよね」
「そういう混沌とした時代の中で、僕の家でも親父を失ってしまって、何か暗い時期だったんですね。でも、だからこそ、僕は家の中でできるだけ明るく振舞っていました。厳しい状況の中でも、みんなに楽しくいて欲しいという思いが、子供心にあったんですよね」
「僕の親父というのは、若いころ船の通信士をやっていたらしんです。でも、ある時期からその仕事が嫌になり、陸に上がって、それで母親と結婚した。だから、うちには通信機器や蓄音機など、とにかくハイカラなものがたくさんあったんですよ。でも当時は、誰もそういったものに興味を持つ余裕がなかった。みんな生きるために必死に働いていた、そういう時代だったんです」
「親父を亡くしてから母は、女性でも手に職がなければダメだということを痛切に感じたらしく、これからの時代は女性も何かを身につけなければと言っていました。人間なんていつ死ぬか誰にも分からないわけですからね。でも、母が働きに出なければならなくなった時、幼かった僕は必死で母を追いかけていったのを覚えています(笑)」
「そんな母を見てきたから、僕も“何でもいい、とにかく一人で生きていける術を身につけなければ…”という思いが子供の頃からありました」
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母の愛と、母への愛
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「僕の母は、親父亡き後も、本当に僕たち兄弟を守ってくれたなぁって思います。僕は、母親から本当に多くのことを教えられて、今でもそれらひとつひとつが心の中に残っているんです」
「母はいつも、『人間というのはね、どんな人でもいい時と悪い時があるんだよ。貧乏であっても卑下しちゃいけない。金持ちだからといって奢ってもいけない。貧乏、金持ちなんていうのは時の運で、人間いつどうなるかは誰にも分からないんだからね』ということを言っていました」
「僕の中では、やはり母親の影響というのがすごく強いんです。僕も母のことがすごく好きですし、母からも100%愛されているって感じて生きてきましたからね」
「我が家では、食べ物は必ず亡くなった親父にお供えしてから頂くという習慣があったんです。僕は昔から甘いものが好きでね、お供えしたらすぐにそれを取って、みんなに内緒で、トイレに隠れて食べていました(笑)。当時のトイレは汲み取り式だから臭いんですよ。でもとにかく“食べる”ということに夢中で、もう味なんてよく分からないけど、口に入れてしまって飲み込んでいましたね(笑)」
「それが母親に見つかってね、『一人で食べてもおいしいかもしれないけど、それをみんなで分けて食べたらもっとおいしいんじゃない?』って言われたんです。それで『あ〜そうか〜、いいことや楽しいことは、人と一緒に感じるともっと楽しい気持ちになれるんだな』って思ったんです」
「僕が子供のころによく言われたのは、『お父さんがいつも見ている』ということ。悪いことをして人の目はごまかせても、お父さんがどこかで見ているんだよ。それと同時に、お父さんがいつでも僕たちを見守ってくれているんだよってね」
「そういう母の言葉の一つひとつが、今でも僕の心に残っている。僕は本当に母親の愛に触れていたからね、いつでも母親を悲しませたくない、母親を喜ばせたいという思いがすごく強かったなぁ」
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心が豊かでいられるかどうか
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いつでも家の中を明るく、母親を喜ばせたい。そんな橋村さんでも、やはり父親がいないということに対しては、少なからず心に小さな穴を感じていた。
「幼少時代はね、やっぱり父親がいないことで、いつも寂しいという思いがありました。お祭りに行くと、お父さんに肩車してもらっている子供がいるでしょ。それがすごく羨ましくってね。“あ〜やっぱり僕にはお父さんがいないんだな〜”っていう思いがすごく強かったですよ」
「小さいときに親父がいないことによって、いじめのようなものを受けたこともあってね、そういう経験から“やっぱりもっと強くなって、何があってもきちんと自分の意見が言えるような人間にならなければいけないんだ”って思うようになったんです。そして、“よし、もっと強くなろう、僕はこれから少しずつ変わっていこう!”って思った」
「強くなるために、自分で自分を守るために柔道を習ったりもしましたけど、僕が考えていた“強い人間”というのは、きちんとした自分の意見や意思を持っていて、それをはっきりと人に言える人間だった。弱いものいじめなどの曲がったことに、きちんと対処できる人間になることだったんです。もちろん柔道で体力、精神力をつけることによって、自信がついてきたのは確かですけどね」
「親父がいない寂しさを、僕は母には決して言いませんでした。でも母はそんな僕の思いに気づいていたのかもしれませんね。母はいつでも、『人間にとって大事なのは、何を持っているかではない。その人がどういう気持ちで生きているかが大事なんだよ』って、僕に言い続けてくれたんです」
「確かに、僕は写真の世界で成功して、周りからもそう思われているかもしれないけどね、でも人間というのは、いつどうなるのか死ぬまで分からないでしょ。もちろんお金も大切だけど、それ以上に、どれだけ心が豊かでいられるかが大事なんですよね。それは今でも変わっていない。人に迷惑をかけない程度にお金があれば、人間というのはいくらでも心豊かでいられるんですよね」
「母は『どんなにお金があっても決して奢ってはいけない』とも言っていました。どんなにお金持ちになったって、有名になっても、自分よりもすごい人はたくさんいるんですよ。だから、そんなことで張り合っていたら、人生転んでしまいますよ、ともね」
「コマーシャルの仕事をしていると、一回の仕事でたくさんのお金が入ってきて、どこへ行っても何をするにもファーストクラスで…ってなってくるんです。そうするとだんだん、まるで自分はセレブリティかのように錯覚してしまうわけですよ。そういう経験をすることが決して悪いんじゃない。ただ、常にハイクラスに自分を置いていると、それによって見失ってしまうものも大きいんですよね。そうやっていい格好をしようとすると、それがきっと作品の中に表れてきてしまうと思う。僕は、母の言葉を思い出すことによって、自分の気持ちをリセットできたんだと思います」
次回の配信(10/23号)もどうぞお楽しみに。
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