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『子供戦世のなかでー大石芳野写真集』 7‚140円/藤原書店/2005.10
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『ベトナム凛とー大石芳野写真集』 9‚450円/講談社/2000.10
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『アフガニスタン戦禍を生きぬく―大石芳野写真集』 10‚500円/藤原書店/2003.10
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バスには乗らずに歩く、倹約の日々。
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1967年、大学を卒業した大石さんは、フリーカメラマンとして活動を始めた。フリーでスタートしたからといっても、仕事が降ってくるわけはない。まして、若い女性ということで、屈辱的な思いをしながらの、営業、作品撮りの日々が続いた。
「とにかく、少しずつ少しずつですよ。バスには乗らずに歩く。喫茶店には入らずに、公園の水道水を飲む。バス代もコーヒー代も、フィルムや現像液を買うための費用にしていました。定価の洋服なんて買ったことなかったですね。買ってもバーゲン。だから、父が見かねて何着か買ってくれたこともありました(笑)。とにかく、倹約倹約でしたね」
元々ジャンルにこだわらず、何でも撮りたいと思っていた大石さんは、石油会社や洋服、物撮り、イメージ広告、むろん雑誌のグラビアなど、どんな撮影でもこなしていった。
「自分の写真をポートフォリオにして営業にまわるんですが、その中身は、営業の相手によって変えていきました。仕事で撮った印刷物がたまっていけば、また別にまとめて。あとはスライドにしたり、プリントにしたり、様々な方法で営業しました」
「でも一回営業に行ったからって、すぐに仕事がくるはずがないですよ。もう手帳が真っ黒になるくらい、色々な人に紹介してもらったり、会いに行ったりしていました。当時は男尊女卑がまだ厳しかったから、『お茶を飲むなら女がいいけど、仕事をするなら男がいい』なんて言われたり、中傷されて悔しい思いをたくさんしました。それでも何十件に一件くらいは仕事をいただけたので、それで息をつないで、また次の仕事に繋げていってました」
貯めたお金で取材に出かけたり、またスタジオを借りて、作品撮りもしていた。スポンサーがついての取材撮影の時でも、スポンサー付きの取材範囲を超えて、自費で撮影を続けることもあった。そして締め切りに間に合うように帰ってくるのだ。
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聞けば、必ず何かある
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戦争や紛争が続く地域など、どちらかといえば治安が確保されにくい場所への取材が多い大石さんに、取材に行くにあたっての準備について伺った。
「まず、事前にできるだけの情報は調べておきますよね。ただ、日本で準備できる範囲であればやるけれど、必ずしもそれが可能な地域ばかりではないから、そういうときは行き当たりばったりです」
「どんな国でも、だいたい飛行機が着くのは大きな街でしょ。だから現地に行けば、ジャーナリストも外国人もたくさんいますから、そこで様々な情報を集めることができます。自分の身を守るためには、あらゆる情報に耳を傾けます。やっぱり自分のことですからね」
「準備できない時はとにかく行って、現地で聞く。聞けば、必ず何かありますから」
「取材に行く前に綿密な計画を立てても、その通りにいくこともあれば、現地で色々な話を聞いて、臨機応変に自分が行きたいところに向かうこともあります。スポンサーから細かく指示されている場合は、もちろんそれに従って回ります。ケースバイケースですね」
現地で行動を共にする通訳は、現地で探すこともあれば、事前に紹介しておいてもらうこともあるという。
「私は特別英語ができるわけではないんですが、日本語の通訳がいないときは英語。ヘタな英語ですが。」
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タッチの差で命拾い
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最近でも、アフガニスタンやイラクにおいて、外国人ジャーナリストが殺されるといった事件が起こっている。大石さんは、今までそんなに危険な目にあったことはない、と言うが、聞かせてもらったアフガニスタンでのエピソードは、息をのむような話だった。
「アフガニスタンはまだ完全復興していないので、陽が落ちるともう真っ暗。夜の9時半くらいだったかな。周りは戦闘が激しかった地で、ただでさえ何にもない道で車を走らせていたんです。その時は、一台の車に、通訳とドライバーと案内人が3人、私を入れて合計6人が乗車していました」
「陽が落ちる前、私と通訳は、暗くなると危ないから、夕食をとらないで一刻も早くカブールへ戻ろうと言ったんです。しかし、3人の案内人は、『ここは危なくないから大丈夫だ、大丈夫だ』と言うので、結局途中で夕食をとることにしました。そこは大勢の人がいて、当然私が外国人だということは周りの人たちにも知られるわけです」
「案の定、出発してしばらくすると、私たちの乗る車を、強盗団らしい2台の車が前後に分かれて挟んできたんです。2台の車はライトで連絡をとりあっているから、明らかに仲間同士だということが分かるんです」
「その時、私が乗っていた車には、現地の言葉で“日本人ジャーナリスト”と書かれたステッカーが貼ってありました。というのも、向こうは検問がすごく多いんですね。その際、“日本人ジャーナリスト”というステッカーがあって、車内には明らかに外国人の顔をした私が乗っていると、わりとスムーズに検問を抜けることができるんです。それで、ドライバーが気を利かせて貼っておいてくれたわけです」
「2台の車に挟まれたと気づいた瞬間、私はそのステッカーを『取って!』って叫びました。そして私は黒いスカーフを瞬時に被って、現地の女性がするように顔を覆ったんです。いかにもアフガン人であるかのようなポーズをとったんです。その1秒?2秒?、タッチの差でした。後ろにいた車が、明かりをつけて中をのぞきこみながら横を通っていっていきました。2度も3度も追い越し、追い越されたり・・」
「しばらくして、その2台の車は私たちの車の追跡をやめ、道路脇で止まりました。きっと、あの車は、外国人の乗っている車ではないんだろう、と話していたんじゃないでしょうか。それで私たちは助かったんです。当時は、外国人を狙った強盗団に巻き込まれるといった事件が、本当に多かったですからね」
「あの時、“日本人ジャーナリスト”のステッカーをはずすことに気づかなかったら、またはそれが外側に貼ってあったら・・・。あのステッカーをはずした、その直後にライトで照らされたわけですから。本当にタッチの差で命拾いしたんです。捕まれば、大抵丸裸にされたり、殺されたりしますからね。それは現地のアフガン人同士であってもね」
「危機一髪という、その手のことは何度かありますね。そういう時というのは、何故か分からないけど、直感が働くんです。私は運が良いのか、これまで銃で撃たれたこともないし、強姦におそわれたこともない。一度、カメラバックをナイフで切られたことがありましたが、その時も切られた瞬間に気づいて、奪われずにすみました」
近年、イラクやアフガニスタンなどへ個人で行く若者たちの“自己責任”ということが問題になったが、報道カメラマンの立場や、現場へ行くにあたっての規制など、昔と比べて変わってきたことはあるのだろうか。
「特に大きく変わったことはないと思います。ただ、一般論で言うと、記者やカメラマンが行きたくても、会社が行かせないということがあります。その代わりをフリーの方々が担っているんですよね。私は、スポンサーの有無に関係なく、毎回自分で自分に保険をかけていきます」
次号(12月19日配信)もお楽しみに!!
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