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『子供戦世のなかでー大石芳野写真集』 7‚140円/藤原書店/2005.10
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『ベトナム凛とー大石芳野写真集』 9‚450円/講談社/2000.10
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『アフガニスタン戦禍を生きぬく―大石芳野写真集』 10‚500円/藤原書店/2003.10
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様々な写真家から受けた影響
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“何かやりたい!”という思いが写真へ向かわせたのか、大石さんは日大芸術学部写真学科で写真を学び始めた。写真大学で女性を見かけるのは、まだまだ珍しい時代だ。
「初めは、写真で世の中と付き合っていくという道があってもいいかな、くらいの気持ちでした。若いときというのは、自分にはたくさんの可能性があると思っているから、これもいいな、あれもいいな、というものがあるんですよね。その中のひとつが写真だったという程度でした」
「学校には、写真が大好きで、中学高校の頃から写真クラブに入っていて、何とか写真で表現していきたい、という人たちが多かったんです。でも、私は写真小僧的なタイプの少女ではなかったですね。そういう意味では曖昧だったかもしれません」
「両親は、普通の女の子のように、大学に行って、卒業してしばらくしたら結婚して…ということをもちろん望んでいたと思いますが、私のやりたいことをやらせてくれました。写真学科に行くということが、なんだかよく分からなかったんでしょうね。こんなに厳しい世界だということもね。3年生になると、課題もすごく大変になってきて、しょっちゅう徹夜したり、あちこち撮影に行ったりしていましたから、さすがにそれを見かねて父に『そこまでやる必要ないだろう!』って言われたこともありました(笑)」
「それでも父は、私が“暗室が欲しい”といえば、引き延ばし機を置くための台を、大工さんにお願いして作ってくれたり。早く嫁に行って欲しいと思いつつも、私がやりたいと思うことはやらせてくれて、協力的でした」
大学3年生にもなると、暗室にこもってプリント作業に熱中するほど、写真の世界に引き込まれていったという。
「当時は、今と違って自分で暗室を持っていないと課題が追いつかなかったんです。報道とか、広告とか、ジャンルが分かれていたわけではないですから、いろんな課題が出ていました。私は大学時代に、写真の基礎など、本当に多くのことを学んだと思います」
今ではすっかりフォトジャーナリストとして認知されている大石さんだが、学生時代はジャンルへのこだわりはなく、広く様々な写真家からの影響を受けてきたという。
「本当に、いろんな方から影響を受けていましたよ。やっぱり“すごいな〜かなわないな〜”という人ももちろんいました。その中でもユージン・スミスに関しては、“私もこういう写真家としての一生をおくれたらいいなぁ”と漠然とですが、思っていましたね」
「今でいうと彼はフォトジャーナリストですが、私が知る限りでは、当時はフォトジャーナリストというくくりはなく、写真家ユージン・スミスという認識でした。彼が写真家として辿ってきた歴史をずっと見ていくと、本当に“大事なところにいた人だなぁ”って思います。一人の人間が、様々な所へ行って、事実を見つめ、しっかりと写真を撮ってきた。彼の仕事というのは、やはりすごいですよね。その写真は芸術的にもすばらしいのですが、それだけに彼の写真については負の評価もありますね」
「日本で言えば、細江英公さん、土門拳さん。アーヴィング・ペンは、広告写真、ファッションですけれど、彼の芸術性、思想性というものは、本当にすばらしいですよね。彼を超えるような芸術生・思想性を兼ね備えた人というのは、なかなかいないんじゃないですか。学生時代に授業でアーヴィング・ペンの写真を見たときには、“あーかなわない、写真家やめようかな”って思いました(笑)。こんな写真が撮れるようにならなければ写真家とはいえないのなら、私は写真家にはなれないと思ったんです」
当時、報道カメラマンに憧れた人の多くが、ロバート・キャパなどの戦場カメラマンの写真に衝撃を受けていたが…。
「キャパは、もちろん知っていましたけど、彼は戦場カメラマンですね。もし私が体力に自信があれば、やっていたかもしれないですが…。でも、私は電信柱や木にも上れないし、駆け足も遅い(笑)。ベトナム戦争でも従軍カメラマンというのはたくさんいて、私もとってもやりたかったですけれど、自信がなかったんです。やはり、戦場というのはどういうところか見て分かっていたし、自分の体力のことは自分で分かっていましたからね。」
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シャッターを押す以前の問題として
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学生時代から、芸術的なものから報道的なものまで、何でも興味があって、何でも撮っていたい人だったという大石さん。その後の人生を大きく変えていくことになるであろう出来事があった。今起こっている現実を伝えたい、という思いの原点になったともいえる経験、それは学生時代、戦時中のベトナムへの訪問だった。
「ベトナム戦争というのは、私がまだ子供の頃から何となくラジオで聞いたり、新聞で見たりしていました。“日本はやっと戦争が終わって、元気を取り戻してきたのに、ベトナムは今まさに戦争中なんだ”ということに、すごく気持ちが落ち込むことがありましたね」
「私が成長していくのと反比例するかのように、ベトナム戦争はどんどん激しくなっていった。日本でも安保闘争が起きたり、政治の嵐が吹いていましたが、その政治の暴力がベトナムに起こっている。時代的な背景もあってか、やはりそこに至るまでのベトナムについては、とても強く感じるものがありました」
「初めてのベトナムは、学生交流でした。ベトナムから学生を呼んで、そして日本からもベトナムへ行くという、民間交流です。当時早稲田大学にいた学生たちが作ったもので、私はそこに加わったんです。私にとってはずっと心憂いていたことでしたから、それは是非行きたいと思って参加しました」
様々な大学から集まった8人の学生は、当時の南ベトナムの首都、サイゴンの空港に降り立った。ベトナム戦争の最中にいる若者との交流を通して、平和へ向かうひとつの力になれれば、というのが交流の目的だ。
「1966年というのはまだ地方でしか戦争がなく、サイゴンというのは静かな方だったんですが、それでも夜静かになると、遠くでドーンという爆音が聞こえてきました。街の中では戦地から運ばれてきた多くの戦死者や、泣いている女性たち、途方に暮れる妊婦さん、病院に行けば負傷者があふれています。空港にも地方から運ばれてきた負傷者や遺体。これから戦地に送られる人と別れを惜しむ家族や恋人たち。サイゴンの街そのものは戦場にこそなっていなかったけれど、そこはまさに戦争の真っ只中でした」
「人々は皆、油断を許さない目をしていましたね。今の日本人の目は、油断だらけでしょ(笑)。アメリカ軍というのははっきりしていたけれど、ベトナムの中でも北と南に分かれていたし、南の中でも共産主義者やゲリラ活動をする人々もいれば、アメリカ軍につく人たちもいて…誰が敵で、誰を信用したらいいか分からないというような、非常に厳しい戦争でした。人々の気持ちはまさに緊迫した戦場、いつでも緊張の糸を張り詰めたような目をしていました。その辺に座っていたいわゆる普通のおばさんに見える人でもね」
日本人学生一行は、サイゴン大学やフエ大学などの学生たちによって、戦争が激化していく前のベトナムを案内してもらった。
「17度線まで行って、初めてベンハイ川を挟んでの北ベトナムを見ました。当時はまだ、17度線付近は非武装地帯でしたから、緊迫した空気はありましたが、行くことはできたんです」
「私はカメラを持って行きましたが、その時は学生交換であって、撮影が目的ではなかった。仮にテーマを持って撮りたいと思ったって、一人で行動することはできなかった、そういうジレンマはありました。そのときは、戦争というものをまざまざと考えさせられる、ということの方が強かったですね。シャッターを押す以前の問題として、人間について、戦争について深く考えさせられました」
日本では学生運動が盛んな時期。表立った行動こそしなかったが、当時の大石さんも、仲間同士で様々な議論を交わしていたという。
次回(12/12配信)もどうぞお楽しみに。
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