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『子供戦世のなかでー大石芳野写真集』 7‚140円/藤原書店/2005.10
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『ベトナム凛とー大石芳野写真集』 9‚450円/講談社/2000.10
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『アフガニスタン戦禍を生きぬく―大石芳野写真集』 10‚500円/藤原書店/2003.10
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日本の戦後、傷病兵の記憶
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日本が太平洋戦争に敗れ、無条件降伏を受け入れる前の年に生まれた大石さんは、戦後の焼け野原から始まって、急速的な復興を遂げていく日本と共に育っていった。
戦後体験の記憶として残ることは数多くあるが、中でも白衣を着た傷病兵たちの姿がとても印象に残っているという。
「東京でもにぎやかな所では、あちこちに傷病兵が立っていました。歌を歌ったり、音楽を奏でてお金を恵んでもらっていたり、電車の中に乗ってきては人々にお金を乞うたりしていたんです。彼らは負傷していますから、腕や足がなかったり、顔が崩れていたりするんですよね。当時私は子供でしたから、出会うたびにビクッとしていました」
「子供の頃の記憶なので曖昧なのですが、いつも同じ場所で音楽を奏でながらお金を乞う二人組がいたんです。それが、15〜20年くらい前だったかな、沖縄の那覇の目抜き通りに彼らが立っていたんですよ。何故沖縄に行ったのか、彼らに話しかけたわけではないので、断定はできませんけれど…。でも、それが私が日本で見た最後の傷病兵でしたね。海外では白い服こそ着ていないですけど、現在でも戦火に見舞われた国で目にします」
日本だけでなく、戦争や内紛という争いが終わり、復興に向けて進んでいく国々というのは、どこでも多くの共通点を見ることができるという。
「街が破壊されているということ。そこにトタン屋根の小さな家を建てて、それが徐々に瓦屋根に変わって、やがて大きな家に立て直していく。そういった復興のプロセスというのは、どこも似ていますよね。私は子供だったので日本のことはあまり覚えていないですが、人々は破れた服も継ぎを当てて大事に着ていましたよね。それは今とは雲泥の差です」
「あのころの人々の表情というのは、やはりどこかに重たい感じがあったかな。私の父は戦争に行きませんでしたが、友達からはお父さんが戦死した、シベリアに抑留したなどという話を聞いていましたからね。友達の心の中の悲しさみたいなものを、私も子供ながらに感じていました」
大石さんは、育った家庭環境を、“ごく普通の家庭です”という。つまり、両親がいて、兄弟もいて、戦争で家族と死別することもなく育ってきたと。今となっては、それは“普通”の当たり前のことかもしれないが、当時は、家族が一人も欠けることなく一つ屋根の下に暮らしていくことが“普通”ではなかった時代なのかもしれない。
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大国の支援と思惑
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戦後の日本は、他国の戦争特需を受けて、かなりのスピードで復興を遂げていくことになる。国を立て直したいという人々の気持ちはどの国でも同じだが、実際の復興速度は国によって違う。
「国を復興させようという人々の気持ちは、同じだと思います。日本の場合は、日本を焼け野原にした張本人であるアメリカが、全面的にてこ入れしたでしょ。ある時期は急劇的に、そしてある時期は長期的な計画でね」
「ベトナムの場合は、アメリカを追い出す、アメリカに勝つという形で平和と国の統一を取り戻しました。それによってアメリカをはじめとする西側諸国、経済的に発展した国々からそっぽを向かれ、何の援助も得られなかったんですよね。日本もベトナムに対しては非常に冷たかったです」
「国が破壊されて、めちゃくちゃになってしまった場合、外国からの援助がないと、なかなか復興できないですよね。食べること、勉強すること、自由恋愛をすること、そういったことは取り戻していけるんでが、国の土台作りということに関しては、やはり経済的な援助がないと難しいということを、ベトナムでも目の当たりにしてきました」
「そういう意味でいうと、日本はアメリカに無条件降伏をすることによって、アメリカなどからの援助を受け、非常に速いスピードで復興していきましたよね。もちろん人々も努力をしたからこそですが、やはり経済的な援助があったということが、日本復興の大きな要因であったことには違いないと思います」
しかし、強国の経済的援助には、戦争そのものがそうであるように、必ず政治的、経済的な策略があることも否定できない。
「日本がアメリカの支援を有り難く受け入れることによって、アメリカによる長期的な策略にはまってしまったとも言えますよね。日本というのは、目先のことしか考えない傾向があるんですが、アメリカは、長期計画を立てることを日本の私たちの周辺を見てつくづく思います」
「日本はもともと魚や野菜を中心とした食生活をしていました。日本人の腸が西欧人よりも長いのも、そういった日本人の食の歴史によって作り上げられたわけです。アメリカは作戦のひとつとして、日本を、牛肉を消費する国にしようという、長期計画を実行していったんです。ハンバーグから始まって、子供たちの味覚を肉に慣らしていくという」
「人間というのは、やはり子供の頃の味覚が一生になるでしょ。数十年の計画によって、今では、個人の好みは別としても、日本人とりわけ若い世代や子どもたちはすっかり肉食民族になってしまいましたよね。そして、その肉はアメリカから輸入する、という構造になっているわけです」
「戦後の復興というのは、すべて国際政治における、大国の思惑に絡んできていると感じますね。日本の戦後の復興もそうです」
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将来は“何か”やりたい!
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大石さんが初めて写真を撮ったのは、小学3〜4年生のとき。付録についていた組み立て式のカメラで撮った、飼っていた猫が産んだ子猫の写真だった。
「ピンホールだったかレンズがついていたか覚えていないのですが、とにかく印画紙に直接焼き付ける、子供向けの紙製カメラです。他に何を撮ったか覚えていないですが…そんなに枚数は撮れなかったと思いますね。家族で写真を撮るときに、父のカメラで私が撮ることもありました。でもそれは、ただスナップを撮るというだけ。特にカメラに興味を持っていたからということではなかったですね」
現在では、一家に一台どころか、一人一台くらいの割合でカメラを持っているといってもいいが…。戦後の日本においてカメラがある家というのは、もちろんごく希なことだった。大石家にあったカメラは、蛇腹式の一丸レフカメラと、二眼レフの2台だ。
「うちは父がカメラを持っていて、よく家で家族の写真を撮っていたんです。だから、私が羽根突きをしている写真や、掃除をしている写真など、結構残っているんです。小津安二郎の映画の風景みたいですよ(笑)」
「高校生になると、修学旅行の時に父のカメラを借りて行ったりしていましたね。その頃には、クラスでも何人かカメラを持っている人はいました。私も、撮ることは嫌いじゃなかったと思いますが、普段、写真を撮るということはほとんどなかったです」
中学・高校時代から、具体的ではなかったものの、将来は“何かやりたい!”と思っていたという。
「当時の女性は、短大を出てお嫁さんになるという人がほとんどでした。すごく優秀な人でも、高校を出てしばらくしてお嫁さんに、という感じでしたからね。私は“何かしたい”と思ってはいましたが、具体的には、将来の設計を考えていなかったですね。線を引くように結婚はしないと決めたりもしていたかったですし、普通の娘でした」
次週(12/5配信)もお楽しみに!!
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