Photo 365 MAGAZINE & DIGITAL PHOTO LABOS
2005.09.12
vol. 59
写真を仕事にしたい人、写真家になりたい人はもちろん、
写真に興味のある人なら誰でも楽しめるメールマガジンです。
画像が表示されない場合
みなさん今日も楽しくお過ごしですか? 
写真を撮ること、観ることが好きな人に、お届けしている雷鳥社メールマガジン「Photo365MAGAZINE&DIGITAL PHOTO LABO」エディターのイタガキです。みなさん元気でお過ごしですか? 今週は写真家・石内都さんのインタビューの4回目です。青春時代といっても若い時ばかりがそうではありません。人生を謳歌すること・・・みなさんも好きな写真を楽しみ、写真の青春時代を過ごしてくださいね。
::: PR ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
プロカメラマンを目指すなら東京写真学園へ!10月期生受講申込受付中
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: PR :::

Photo365
MAGAZINES

メールアドレスの
登録・解除・変更
バックナンバー

私が写真を撮るワケ
生きているものを愛しむカタチ、それが写真。写真家・石内都インタビューVol.4
美大に入学、映画研究会に入ったことで、ようやく青春が始まったという石内さん。表現とは? 生きるとは? アートとは? 自分の中にあるものを語らえる仲間ができ、心の中にあったモヤモヤがようやく形になりはじめてきたところ・・・。今週は、石内さんの青春時代に人生を大きく変えたもうひとつの出来事、そして写真との出会いをお届けします。
■ Profile ■
石内都(イシウチミヤコ)
1947年群馬県生まれ、横須賀育ち。多摩美術大学の織科中退。1970年代半ばから独学で写真をはじめる。国内外で作品を発表し続け、1979年には『アパートメント』で木村伊兵衛賞を受賞。写真集の刊行はじめ、写真展など精力的に行う日本を代表する写真家である。近年は、自身のライフワークとしても撮り続けている、傷跡の写真、爪、手足などの身体の一部を接写した写真などを作品を発表。本年は、第51回ヴェネチア・ビエンナーレ美術展で日本代表として個展を開くなど、国内外から高い評価を得ている。
『scars』
人の身体に刻まれた傷をテーマに撮り続けられた写真がまとめられた写真集。2005年/4‚410円/蒼穹社




















『薔薇のパルファム』
薔薇が、もっとも匂いたつのは、いつだろう。薔薇をめぐる世界の物語と香りの最新化学をわかりやすく解説。匂いたつような薔薇の写真とともに薔薇の魅力を堪能できる珠玉の書き下ろしエッセイ。文・蓬田勝之 写真:石内都 2004年/1‚680円/求龍堂




















『マザーズ2000-2005―未来の刻印』
「第51回ヴェネツィア・ビエンナーレ日本館2005」の公式カタログでもある。出品作の『mother's』シリーズのほか、初期三部作、『絶唱・横須賀ストーリー』、『アパート』、『連夜の街』からも収録されている写真集。2005年/2‚415円/淡交社




















『キズアト』
物語として再生する無数の傷跡。写真家により写し取られた傷跡とは紛れもなく写真そのものである。未発表を含む写真56点を収録した写文集。2005年/2‚520円/日本文教出版


自己否定という通過儀礼
映画研究会での人生の開花から1年後、再び石内さんの人生を大きく変える人々、出来事との出会いが訪れる。東大全共闘だ。

「東大生たちの“自己否定”という言葉にすごく触発されたんです。東大生といったら、エリートですよね。その彼らが、“自分を否定したところから始まる”と言っているんです。なかなか自分を否定することってできないですよね。それを東大生が使ったことの重みを感じたんですよね。私は東大闘争には関わらなかったけど、大学闘争はやっていたし、バリケードの中にいましたから。そういう中で学んでいきましたね」

「“自己否定”というのは、通過儀礼のようなものかもしれません。それを通過していく中で、新しい自分が出てくる。“自己否定”とは観念的なものであって、ロジカルな言葉から受けるイメージですよね。それは私が勝手にイメージしているだけで、彼らが言っていた本当の意味は違うかもしれないですけど・・・」

石内さんは、大学3年の時にバリケードに入り、1969年10月に機動隊が入ってロックアウトされる。その後は、一度も学校へ行くことなく、大学を中退した。

「大学闘争中の一年間は、授業も中断していました。でも、その分の授業料を払えば卒業させるという通知が、親のところには届いたんです。ようするに、卒業証書をお金で買うということですよね。もちろん両親には、お金を払わないでくれ、と言いました。『私は卒業証書を必要とするような職業にはつかないから。もったいないから、その分のお金を私に下さい』って言ったんです(笑)。結局お金はもらいませんでしたが、大学はやめてしまいました」

「バリケードの中で、これからどうやって生きていくかということも含めて、いろいろな人に出会って、いろんな話をし、たくさん勉強していましたから」

大学を中退したはいいもの、その後の道なんて何も決まってはいなかった。

「その後はバイトをたくさんしていましたね。多摩美の先輩の手伝いで、フリーデザイナーとして版下を作ったりもしました。それを3年くらい続けたかな。その間、父からも仕事を手伝ってくれと言われていたので、父の事務所で事務仕事もしていました。結構な高給取りだったんです。写真を始めてからも事務所で働いていましたから、撮影していたのは土日だけでしたね」
絶唱・横須賀ストーリー
写真をはじめたきっかけは、ふとしたことだった。家には、引き伸ばし機からバット、ピンセット、そしてカメラまでの一式が揃っていた。友人から頼まれて、家の空き部屋に暗室セットを置いてあげていたのだ。

「そのころ、多摩美の付属にあたる多摩芸術学園の人たちが、写真のグループ展をやっていて、いつも見に行ってたんです。そのうちに、『そういえばうちにも写真機材があるなぁ』と思って、引っ張り出してきたんです。私が買ったのは消耗品、印画紙と薬品、フィルムだけですね」

「まずはカメラを持って、その辺を撮りに行きました。写真のことなんて全く分らなかったので、分からなくなったら周りの人に聞いていました。本当は露出計で測らないといけないんだけど、私は適当。測ったことなんてないんです(笑)」

「なかには、ひどいことを教えてくれた人がいました。写っていないと困るから、とにかくフィルム現像を長くすればいいんだって(笑)。ようするに、ネガが濃いということは、光をたくさん当てれば映像が出てくるわけです。普通、薬品は50度で溶かして20度に下がるまで待つんですが、私はそれが待てなくて、30度くらいになったら、もういいやってやめてしまったりしましたね。初めは30度で20分くらい現像していました。そうするとネガフィルムは真っ暗で見えないんです。とにかく、写真のことなど、ぜんぜん分らなかったので、いろんなことを試したりしながらやっていきましたね(笑)」

初の個展「絶唱・横須賀ストーリー」の出展作品は、空まで焼くのに1時間も露光したままでプリントしていたという。

「だんだん粒子がブツブツ出てくるんです。私は元々ロール印画紙で大きくプリントしていたので、現像するときには目で見て明らかに分るくらいの粒子が浮いているんです。もちろん狙ってできたわけじゃないですよ。でも、その粒子と粒子の間に空間があって、それが面白かったんですね。それで『あ〜写真ていいなぁ』って思いました」

暗室でのプリント作業に目覚めた石内さんは、暗室作業をやりたいがために、その辺のものを適当に撮り始めていった。

「最初に暗室に入ったときに、すごく懐かしい匂いがしたんです。・・・氷酢酸の匂い。実は、糸を染める時に使うんですよ。植物性の色染めは塩なんですが、動物性の色染めは酢酸を使うんです。『酢酸をいったい何に使うの?』って聞いたら、写真の停止液という。だから暗室作業は染物をしているのと同じ感覚なんですよね」
一番遠い街、横須賀
最初のグループ展は、26歳の時。写真を始めて2ヶ月がたったころ、写真効果というグループ展に欠員が出たから参加しないか、と声がかかったのだ。

「そのグループ展で、東松照明さんが、私の作品が一番いいって褒めてくれたんです。それで、じゃあもうちょっとやってみようかなと思って。とりあえず、30歳までは続けようと決めました」

写真家では食べていけないと思っていたので、写真家になるつもりはなかったという石内さんだが、27歳から3回のグループ展に参加。30歳で初めて個展もやった。それが、銀座二コン・サロンで開催した「絶唱・横須賀ストーリー」だ。

石内さんの心の中に、“ある種の違和感”として暗い影を落としていた“横須賀”を、最初の舞台に選んだのは、いったい何故だったのか。

「グループ展に出していた時は、具体的に撮りたいものというのがなかったので、なんとなく近所を撮っていたんですよ。そしたら偶然友達から、『宮城県の気仙沼の先の方にある宮古という港町に行ったらいい』と言われたんです。言われるがままに、とりあえず行ってみたんですけど、何を撮ったらいいか分からなくてね。『私は何しにここへ来たの?』って感じでした」

「もちろん、少し写真は撮りましたけどね。でも、撮っていても何も面白くない。手ごたえがない。それで、駅の待合室でボーっと考えてしまいました。『はるばるこんなに遠くまで来たけど、つまんないなぁ。いったい私にとって一番遠い街はどこなんだろう?』って。その時にハタと、『横須賀だ…』って思ったんです」

「横須賀はずっと嫌いだったんですよ。いい思い出がない街だったから、二度と横須賀には戻らないつもりでした。でも、私にとって一番遠い街。一番嫌悪する、何かが引っかかっている街。それが横須賀だったんです。そんな思いをかかえ、写真を撮りはじめたのが29歳の時。30歳の誕生日は暗室で迎え、結局『絶唱・横須賀ストーリー』のプリントを全紙でロール紙10メートルと400枚焼きました」

カメラを持って横須賀へ出掛け、最初に向った先は、“ドブ板通り”だった。幼い頃「女の子は歩いてはいけない」と言われ続けてきた場所。しかし、最初はシャッターを押すことができなかったという。

「よく考えてみると、みんなの横須賀のイメージというと、ドブ板通りなんですよ。でも私にとって、ドブ板は横須賀ではなかった。あそこはアメリカだ、と言われて育ったわけですから。だから、ドブ板は撮る必要はないと思って、途中でやめてしまいました。それからは、地図を買って、横須賀を全部歩こうと思ったんです。そうして半年間撮り続けたのが『絶唱・横須賀ストーリー』です。半年といっても、父の事務所で働いていたから、土日だけですけどね」

横須賀の街を歩きながら、シャッターを押す。しかし、石内さんにとって“写真を撮る”という行為そのものへの欲求はなかったという。

「私の中で暗くて重い記憶を、なんとかして表に出したかったんです。自分が引っかかっている、おぞましい檻のようなものを。まずは自分の足元を見ないと、どこへも行けないなと思った。それが横須賀だったんです」

石内さんにとって、自分の記憶を辿る作業というのは、“写真を撮る”という行為そのものではなく、あくまでも暗室でのプリント作業に他ならなかった。

「やっぱりプリントですよ。プリントしながら、色々考えて、ロールと400枚の印画紙に全部吐き出したわけですから」

「プリントする行為そのものが、私にとって、何かこう自分が今まで抱えていたものを、吐き出すというか…ポツポツと浮かび上がる粒子の中に記憶を甦らせ、今の自分と照らし合わせながら、記憶をプリントしていくという行為だったと思います」

「だから、私にとっては、“写真”である意味ということではなく、ひとつの表現の手段として写真があった、ということなんです。初期の三部作というのは、まさにその流れで、自分が抱えているもの、言葉にならないよく分らないものを、全部いっぺんに吐き出す。そういう、ひとつのプロセスとして、撮影があり、プリントがあり、発表があったわけです。作品というのは、やはり発表しないと意味がないですからね」
木村伊兵衛賞効果
1978年、2回目の個展「アパート」を開催。翌年、第4回木村伊兵衛賞を受賞する。

「個展などは開いていたけれど、とにかく写真の世界のことは全然知らなかったから、木村伊兵衛賞がどういうものなのか知らなかったんです。もちろん、名前くらいは知っていましたけど、その趣旨も歴代受賞作品も、分らなかったんですよ」

「それに、賞というのはむこうが勝手にくれるものだから、私には関係なかった。その当時は、特に嬉しいということもなかったんだけど、でも最近になって、やっぱりいただいてよかったかな、と思うようになりました(笑)。あの賞をいただいてなかったら、今がなかったかなぁ、なんて思ったりすることもあります(笑)。当時はその賞の意味というのが、分らなかったですし、私もすごく生意気だったから、ふんって顔していましたよね(笑)」

とはいえ、木村伊兵衛賞をとることによって、写真界の石内さんへの動きは明らかに変わった。賞が与えられたものだったのと同様、今度はたくさんの仕事が、次々と舞い込んできたのだ。

「仕事といっても、もう色々な仕事があります。私は、それぞれ一回だけやってみよう、と決めたんです。どんなことも一回やれば分かると思ったから。雑誌の取材で、いきなり海外撮影へ行ったこともありましたよ。でも、行ってみて『なんで、私はこんなところまで来て、こんな写真を撮らなきゃいけないんだろう』って、すごくつまらなかった。頼まれた仕事ですからね。お金はすごくいいんだけど、面白くなかったんです」

「きっと私には向いてなかったんですよね。何でも向き不向きというものがあります。とはいっても、私の場合、基礎がないから、何をどう撮っていいか分からなかったんです。自分の写真というのは、自分で撮りたいように撮るだけでしょ。でも、人から頼まれたものは、どう撮ったらいいのか分からないの。すごくプレッシャーを感じて、おろおろしてしまうんですよ(笑)」

「ある女性誌でも、16ページ分の撮影で海外へ行ったことがあって。それが、その時一緒に行った編集者とそりが合わなくてね。私は自分の写真に添える文章を、どうしてもその人に書いてもらいたくないって思ったんです。それで私は、勝手に原稿用紙20枚も書いて、写真と一緒に提出したの。自分の文章じゃないと載せたくないって言い張って。数日後、編集側から返ってきた言葉は、『文章の水準はいってます』って。なんか頭にきちゃった(笑)」

「そんなわけで、向いていないことはやめようと思いました。それは、相手に対しても失礼なことだから。この写真を私が撮る必要はないんじゃないか。その道のプロの方もいっぱいいるだろうし、そういう方が、楽しく撮った方がいいですよね」

「もし私が、広告や雑誌の仕事に向いていたら、大変ですよ。今頃、家を建てて、外車に乗って、助手がいっぱいいて、すばらしい暗室をもって…左団扇でだったかもしれません(笑)」

「とにかく、それが木村伊兵衛賞効果でした」

写真の仕事を請けていた一方で、相変わらず父の事務所での勤務は続けていた。そのため、写真関係の仕事で入ったお金は、全て貯蓄。その時の貯えがあったからこそ、後の作品作りができたのだという。

次回(9/26配信)もお楽しみに。

写真


柳谷杞一郎のデジタル写真をめぐる冒険
こんにちは。柳谷杞一郎です。
前回、現像パラメータの設定項目として、コントラスト、シャープネス、トーンカーブなどがあるというお話までしました。今回はこれらについて、具体的なお話をしていきたいと思います。
■ Profile ■
柳谷杞一郎(やなぎたにきいちろう)
写真の学校/東京写真学園校長。
広告・出版物の制作ディレクターを経て、88年エスクァイア日本版の月刊化に際し、編集者として参加。90年副編集長。91年にカメラマンに転身。“大人の感性”と“少年の温もり”の混在する写真家として注目を集める。写真集に『Rapa Nui』『X』、著書に写真でわかる<謎への旅>シリーズの『イースター島』『マチュピチュ』などがある










花写真〜上手になるための18のルール〜 写真を上手に撮るための18のルール。初心者から中級者まで、読んで楽しい一眼レフカメラ入門の書。 
雷鳥社(2002/03)/1‚155円(税込み)
もっと詳しく読む...
シャープネス処理とは、画面上の境界部分を際立たせて輪郭をはっきりさせるというものです。

レタッチ作業を行う場合、最終段階の処理作業として重要なポイントになります。シャープネス処理の具体的なプロセスは色と色の境界部分に黒や白のピクセルを挿入するというものもです。

少し大げさに言えば、輪郭部分を黒い線でフチどって、目立たせるということになります。まったく、シャープネス処理をしないと、ボンヤリした仕上がりになってしまいますが、シャープネスを強くかけすぎると不自然な画像になるだけでなく、ノイズがでることもあります。

コントラストを強くかけるという処理は、「明るいものはより明るく、暗いものはより暗くする」というもの。つまり、写真の中のもっとも明るい部分(最高輝度)ともっとも暗い部分(最低輝度)の差を大きくすることです。

濃淡をはっきりさせて、写真にメリハリをつけるという効果があります。コントラストが弱い写真はネムイ写真になってしまいますし、あまり強くするとこちらも不自然な写真になってしまいます。

一般的に日本人は“シャープネスもコントラストも強い”が好きなようで、一般向けのデジタルカメラは、最初からシャープネス、コントラストともに強い設定になっています。

逆に、プロ向けの高級一眼レフデジタルは、シャープネス、コントラストともにやや控え目に設定されています。「強くしたい意志のある人は自分の意志でどうぞ」ということなのでしょう。現像パラメーターで細かな設定ができるようになっています。

ちなみに富士フィルムの「ベルビア」というフィルムはコントラストの強いフィルムで日本では人気でしたが、ヨーロッパでは売れなかったとか。ヨーロッパ人はコントラストの強い写真よりも、やわらかい感じの写真が好きなんでしょうね。

少し話が長くなりました。現像パラメータの設定のうち「トーンカーブ」については、次回にしたいと思います。
イースター島 改訂版 写真でわかる謎への旅 息を呑む美しい写真とともに綴られる、トラベル&ミステリーガイドの最新版。2005年5月の取材による新しい写真・最新情報を掲載!!雷鳥社(2005/08)/1‚575円(税込み)

デジタル「写真の学校」 発売前より予約注文が殺到のデジカメ本!! 基本的ノウハウを含め、あなたの「本当に撮りたい写真」が見つけられる1冊です。柳谷杞一郎氏も編集に関わっています。
雷鳥社(2005/07)/1‚575円(税込み)

「写真の学校」の教科書 大好況につき、発売5ヶ月で4刷出来!!
雷鳥社(2004/08)/1‚575円(税込み)
もっと詳しく読む...


今週のPICK UP

■ Profile ■
秦如美(チンヨミ)
1964年東京生まれ。1992年朝鮮新報社(写真部)入社し、退社後フリーに。2002年東京綜合写真専門学校研究科卒業。同年、個展「月の棲家」をニコンサロンにて開催。また、ドイツ、スペインにても写真展を開催。現在はヨーロッパを中心に中心に巡回中。

秦如美写真展『きのうの前髪』
誰もが、誰かの娘だったり、友達だったり、隣人だったり。そして、信頼され、嫌われ、愛されている。本展は、そんな日常の中で、もがきつつ母親として生きる作者による作品展。彼女の娘や身の回りの光景を通して描かれる、作者独自の視点でとらえられた作品が展示される。モノクロ、カラー約50点。
■9月23日(金)まで 入場無料 月曜休館
Visual Arts Gallery Tokyo 東京都新宿区西早稲田3-14-3 早稲田安達ビル1F MAP
■地下鉄東西線早稲田駅下車 徒歩12分、
 JR山手線高田馬場駅下車 徒歩13分
■11:00〜18:00  最終日17:00まで
■問 03-5272-7351
(C)秦如美

(C)秦如美
::: PR ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
編集の学校/文章の学校
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: PR :::

編 集 後 記
幼少時代を過ごした場所…私は確か、大学を卒業した年に、4歳まで過ごした町と、それから7歳まで過ごした町に行きました。最初の町で、約20年前の私(4歳の時の私)を覚えていてくれる人に出会ったときは、本当に嬉しかった〜。それは、海が見下ろせる教会の牧師さんだったんです。ちょっとドラマみたいでしょ(笑)?でも本当の話です。その土地に行って歩いていると、不思議と色んなことを思い出してくるんですよね。あ〜いつか私が遠い国に行って、20年後くらいに日本に戻ってきたら……なんて、また妄想に走る前に現実をちゃんと見つめないとダメですよね!(Hanaoka Mariko)
問 い 合 わ せ
雷鳥社マガジン
URL: http://www.raichosha.co.jp/mm/
 広告のお問い合わせ: http://www.raichosha.co.jp/mm/ad.html
ご意見・ご感想: photo@raichosha.co.jp
登録の解除をご希望の方は、下記のURLによりお願いします。
  http://www.raichosha.co.jp/mm/photo.html
メールマガジンにご登録いただいていらっしゃる方々には雷鳥社より、不定期で新刊案内等を自動的に配信させていただきます。どうぞよろしくお願い致します。
「Photo 365 MAGAZINE」に掲載された記事の無断転載を禁じます。
Copyright. © 2004- Raicho-sha All Rights Reserved.